【プロジェクトK 〜全開の聖域〜】「0センチの無防備 〜ファスナー、沈黙の開放〜」
【プロジェクトK 〜全開の聖域〜】
「0センチの無防備 〜ファスナー、沈黙の開放〜」
男は、晴れ渡る空の下を、穏やかな足取りで歩いていた。
襟元は乱れなく整えられ、靴音は一定のリズムを刻み、歩幅にさえ無駄がない。
ガラス張りのビルに映る自らの姿を横目に見ながら、男は密かに満足していた。
今日という一日は、完璧だ。
街の流れに溶け込み、人々と擦れ違い、信号はちょうどよく青へ変わる。
世界は静かに、自分を受け入れている。
そう信じて疑わなかった。
その時だった。
下腹部を、ひと筋の風が通り抜けた。
あり得ない場所を吹き抜ける、あり得ない涼しさ。
夏の風とは違う。
偶然でもない。
身体が先に異変を察知し、脳だけが理解を拒んでいた。
男は歩みを止めない。
止めた瞬間、何かが終わる気がした。
呼吸を乱さぬよう努めながら、ほんのわずかに視線だけを落とす。
そして。
「……っ!」
世界から、音が消えた。
そこには、本来存在するはずの境界がなかった。
ズボンの中央。
社会という巨大な秩序を支える、最後の防壁。
その小さな金属のスライダーは、重力へ完全なる忠誠を誓ったかのように最下部へ沈み、布地は静かに口を開けていた。
男は思考を失う。
いつからだ。
家を出た瞬間か。
駅のトイレか。
それとも、昼食後か。
脳内で、本日の行動履歴が猛烈な速度で再生される。
コンビニの店員。
信号待ちで目が合った学生。
すれ違った老夫婦。
微笑んだ女性。
彼らは何を見ていた。
あの一瞬の沈黙。
あの絶妙な視線の揺らぎ。
あれは偶然ではなかったのか。
誰ひとり指摘しなかった。
誰ひとり笑わなかった。
都市全体が、この小さな破綻を胸に秘めたまま、何事もなかったように男を通過させていたのである。
それは嘲笑ではない。
あまりにも巨大な沈黙だった。
男は何食わぬ顔のまま進路を変え、近くのビルへ滑り込む。
人気のない廊下。
誰もいないことを確認すると、震える指先で、ゆっくりと金属へ触れた。
冷たい。
その感触だけが、現実だった。
男は静かにスライダーを引き上げる。
「ジッ――。」
その、わずか一秒にも満たない音は、崩れかけた尊厳を縫い合わせる、小さくも荘厳な鎮魂歌だった。
境界は再び閉じられた。
世界は何事もなかったかのように回り始める。
外へ出ると、さっきと同じ風が頬を撫でる。
しかしもう、その風は侵入してこない。
街は相変わらず騒がしく、人々は誰も何も語らない。
ただ、固く閉ざされた一本のファスナーだけが、男と都市だけに共有された、名もなき秘密を静かに守り続けていた。
