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現実から身を守るための小さな装置 第3話 忘却の保存装置

現実から身を守るための小さな装置
第3話 忘却の保存装置
私は、よく忘れる。
鍵。
財布。
約束。
人の名前。
それから、ときどき、大切なこと。
昔は、それを欠点だと思っていた。
だから、忘れないようにメモをするようになった。
冷蔵庫に貼る。
スマートフォンに入れる。
手帳に書く。
「忘れないこと」
という項目まで作ったことがある。
その日も、帰宅すると冷蔵庫の扉にメモが貼ってあった。
牛乳。
卵。
それから――
最後の一行だけ、何度読んでも意味が分からなかった。
思い出さなくていい。
私はしばらく、その文字を見つめていた。
自分で書いた字だった。
けれど、何のことなのか思い出せない。
私はメモを剥がした。
丸めて捨てた。
翌朝には、そのことも忘れていた。
それから数日。
私は妙なことに気づいた。
忘れたはずのものほど、生活の中に残っている。
たとえば、駅前の古い喫茶店。
名前は思い出せない。
でも、そこを通ると、なぜか少しだけ歩く速度が落ちる。
公園のベンチ。
誰と座ったのか思い出せない。
でも、そのベンチを見ると、胸の奥が少し温かくなる。
古い歌。
歌詞は忘れている。
なのに、サビだけは口から出てくる。
忘れているのに、
残っている。
ある晩、私は引き出しの奥から古い封筒を見つけた。
差出人の名前はなかった。
中には、一枚の紙だけ。
そこにはこう書いてあった。
あなたは、忘れることで覚えている。
私は笑った。
何を馬鹿なことを。
そう思った。
けれど、その紙を捨てることはできなかった。
翌日、会社へ行った。
仕事をして、
昼食を食べて、
帰宅した。
そして、玄関を開けた瞬間。
なぜか、涙が出た。
理由は分からない。
悲しいわけでもない。
嬉しいわけでもない。
ただ、何かを思い出したような気がした。
けれど、何も思い出せない。
私は靴を脱いだ。
鞄を置いた。
そのまま床に座った。
すると、突然、
引き出しの奥にしまった紙のことを思い出した。
私は立ち上がり、取りに行った。
紙を広げる。
そこには、さっきと同じ文字。
あなたは、忘れることで覚えている。
その下に、もう一行増えていた。
忘れたから、ここまで持ってこられた。
私はしばらく動かなかった。
記憶というのは、全部を持って歩くためのものではないのかもしれない。
持ちきれないものを一度、暗い場所へ預ける。
必要になったときだけ、
匂いとして。
音として。
風景として。
理由のない涙として。
戻ってくる。
忘却は、消去ではない。
保存だった。
人間は、覚えていることで生きているのではなく、
忘れておくことで、
壊れずに生き延びているのかもしれない。
私は紙を引き出しに戻した。
そして、鍵をかけた。
何を忘れたのかは、
やっぱり思い出せなかった。
でも、それでいい気がした。
その夜、久しぶりに、
よく眠れた。

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