見出し画像

『クマムシ係』第十三話 配属される前の送別会

『クマムシ係』
第十三話 配属される前の送別会
金曜日だった。
午後五時。
第四室に内線が入る。
「総務課です。」
佐々木が受話器を取る。
「はい。」
「本日の送別会ですが。」
「はい。」
「第四室から三名でお願いします。」
佐々木は予定表を見る。
何も書いていない。
「どなたの送別会でしょう。」
受話器の向こうが少し黙る。
「佐々木さんです。」
「私ですか。」
「はい。」
「退職するんでしょうか。」
「まだです。」
「異動ですか。」
「まだです。」
「では。」
総務課の職員は、
申し訳なさそうに言った。
「配属前の送別会になります。」
午後六時。
市役所の食堂。
横断幕が掛かっていた。
佐々木さん 配属前送別会
拍手が起きる。
佐々木も拍手する。
誰のためなのか分からないまま。
席に着く。
隣は監査官。
向かいは人事課長。
司会がマイクを持つ。
「それでは。」
咳払い。
「佐々木さんから一言。」
佐々木は立ち上がる。
少し考えた。
「……どちらへ行くのでしょう。」
会場が静まり返る。
司会が慌てて資料を見る。
「申し訳ありません。」
「はい。」
「異動先が空欄でした。」
「そうですか。」
「ですが送別会だけ先に予約されていました。」
乾杯が始まる。
グラスが鳴る。
料理が運ばれる。
誰も佐々木がどこへ行くのか知らない。
しかし、
誰も不自然だと思っていない。
第四室に関わる者だけは。
新任職員は名札を見る。
そこには、
自分の席の前に、
小さな紙が置かれていた。
歓迎予定者席
「私、歓迎されるんですか。」
総務課の職員が頷く。
「はい。」
「今日ですか。」
「まだです。」
「じゃあ。」
「歓迎前歓迎会です。」
新任職員は深く頷いた。
最近、
理解しようとしなくなってきた。
宴も終わりに近づいた頃。
一人の老人が遅れて入ってきた。
灰色の背広。
見覚えがある。
第零室の老人だった。
誰も紹介しない。
誰も名札を付けていない。
老人は佐々木の前に立つ。
「おめでとうございます。」
「ありがとうございます。」
「まだ何も起きていませんが。」
「はい。」
老人は封筒を一つ差し出した。
白い封筒。
何も書いていない。
「これは。」
「送別記念です。」
「開けても?」
「まだです。」
「いつ。」
老人は静かに笑う。
「送別前に。」
会は終わった。
片付けが始まる。
新任職員は、
会場の入口に貼られた案内板を見る。
そこには今日の予定が並んでいた。
18:00 配属前送別会
19:30 歓迎前歓迎会
20:00 未着任懇親会
21:00 観察継続確認会
そして一番下。
小さな文字で、
こう書かれていた。
22:00 クマムシ 出席予定
「佐々木さん。」
「はい。」
「クマムシ、来るんですか。」
佐々木は案内板を見た。
しばらく見つめた。
それから静かに答えた。
「……欠席した記録はありません。」
新任職員は笑った。
声を出して笑った。
監査官も笑った。
人事課長も笑った。
そしてその頃、
地下三階の第四室では、
誰もいない顕微鏡の下で、
クマムシがいつもよりほんの少しだけ、
前へ歩いたように見えた。
そのことは、
誰にも確認されなかった。
だから記録にも残らなかった。
――第十四話「初めて動いた日」へつづく。

いいなと思ったら応援しよう!