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日本囜憲法の誕生 〜囜䌚図曞通の資料を蟿る〜 第4ç« 

激突する二぀の憲法構想【前線・政府案線】

前回の蚘事でお䌝えした通り、近衛文麿率いる宮䞭ルヌトがGHQの梯子倖しによっお厩壊し、䞻導暩を取り戻した政府偎の束本委員䌚は、最高暩嚁・矎濃郚達吉の改憲䞍芁論に甘え、のらくらりず構えおいたした。

しかし、GHQからの改憲圧力は刻䞀刻ず高たっおいきたす。そしお、ようやく重い腰を䞊げ、本栌的な怜蚎に着手するこずになりたす。

こうしお始たったのが、最高峰の法孊者や官僚たちによる癟家争鳎の詊案づくりです。 しかし、圌らが繰り広げたのは、時代錯誀な倧日本垝囜憲法のマむナヌチェンゞに過ぎなかったのです。

束本委員䌚の本栌始動ず四原則

氎面䞋で進められた束本委員䌚の議論ず詊案

宮䞭ルヌトの怜蚎が進む䞀方、政府ずいう公匏の組織ずしお、1945幎10月25日に憲法問題調査委員䌚が蚭眮されたした。委員長には囜務倧臣の束本蒞治が就任したため、通称束本委員䌚ず呌ばれたす。
 
ただし、この委員䌚での審議は䞖間やメディアには䞀切非公開でした。囜民の目から遮断された圢で密かに議論が進められおいたのです。
委員䌚の目的は、そもそも憲法改正が必芁であるかどうか、必芁であるならばどの範囲で改蚂すべきかを調査・審議するこずでした。
圓時の束本委員䌚で、実際にどのような議論ず掚敲が行われおいたのか、それを物語る史料がこちらです。

2-3 憲法問題調査委員䌚における議論ず各委員による改正詊案の起草

䞊郚にはうっすら秘の朱印が残り、䞋郚には「十二月二十二日、二十六日の総䌚で怜蚎せるもの」ず手曞きの付箋が貌られおいる。

2-3 右

印字された詊案の呚りには、委員たちによっお「改正の芁なし。倩皇の統治暩の行䜿は䞇民の翌賛に䟝る旚を特蚘するは劥圓ならず。」などずいった修正・加筆の手曞き文字が曞き蟌たれおいる。

2-3 巊

審議の初期段階では、倧日本垝囜憲法の運甚の芋盎しで足りるのか、それずも条文の改正たで螏み蟌むべきかをめぐり、1文字ず぀必死にペンを走らせおいたこずが分かりたす。

しかし、どれほど手曞きの修正を重ねようずも、圌らの意識の根底にあったのは、倩皇が統治暩を握る基本構造は絶察に倉えないずいう譲れない䞀線でした。改蚂はあくたで最小限にずどめる、この姿勢こそが、圌らの限界だったのです。

垝囜議䌚の衚舞台で瀺された束本四原則

束本委員䌚で氎面䞋の詊行錯誀を続けおきた束本囜務盞ですが、1945幎12月8日、珟圚の囜䌚にあたる垝囜議䌚の堎に匕っ匵り出されたす。そこで議員からの質疑に察し、答匁ずしお束本が衚明した憲法改正の基本方針、それが束本四原則です。

2-4 束本囜務盞「憲法改正四原則」 1945幎12月8日

束本囜務倧臣が「第䞀ニ 」「第二ニハ 」ず改憲四原則を答匁した堎面。倩皇䞻暩の維持を明確にしたこの答匁に、議堎からは倧きな拍手が湧き起こった。

2-4 赀枠

束本が瀺した四原則の芁点は以䞋の通りです。

  1. 倩皇䞻暩の維持 倩皇が統治暩を総攬するずいう倧日本垝囜憲法の基本原則は倉曎しない。

  2. 議䌚の暩限拡倧 垝囜議䌚の暩限を拡倧し、予算審議暩や法埋制定における立堎を匷化する。

  3. 囜務倧臣の責任明確化 囜務倧臣の茔匌責任を匷め、議䌚に察しお実質的な責任を負う運甚に近づける。

  4. 臣民の暩利の拡充 臣民の自由および暩利の保障を拡倧し、法埋による制限のあり方を改める。

䞀芋するず、議䌚の暩限や囜民の暩利を広げる前進的な改革のようにも芋えたす。 しかし、圌らが䜕ずしおも死守しようずしたのは倩皇䞻暩であり、その本質はあくたで珟状維持に過ぎなかったのです。

束本四原則が浮き圫りにした時代ずの決定的なズレ

この四原則は、政府がどのようなスタンスで改憲を行おうずしおいたかを劂実に物語っおいたす。

第䞀原則にある通り、倩皇統治暩の維持が最優先事項であり、改正はあくたで制床の運甚面や議䌚・人暩芏定の郚分的な手盎しにずどめる方針でした。
束本四原則は、政府がどこたで倧日本垝囜憲法を守る぀もりだったかを象城するものずなったのです。

しかし、これこそが倧きな萜ずし穎でした。

あくたで倧日本垝囜憲法の枠組みを守るずいう政府の姿勢は、倖からのGHQだけでなく、実際は内なる囜民の意識ずも決定的な枩床差を生み出しおいたのです。

加速する䞖論ず、孊者たちの䞍噚甚なマむナヌチェンゞ

囜民はすでに先を行っおいた

政府がいかに倧日本垝囜憲法を守るかず頭を抱えおいた1945幎暮れ、囜民の意識はたったく異なる方向ぞ走り出しおいたした。

内閣情報局䞖論調査課がたずめた憲法改正に関する䞖論調査報告には、圓時の人々のリアルな声が残されおいたす。驚くべきこずに、政府自らが実斜した調査でありながら、憲法を改正すべきだずいう意芋がすでに過半数を占めおいたのです。以䞋は、その史料です。

2-5 内閣情報局䞖論調査課「憲法改正に関する䞖論調査報告」 1945幎12月19日

空襲で焌け野原ずなった街で、人々は旧䜓制の限界を肌で感じ取っおいたした。戊争を防止し、人暩を守るための根本的な改革を望む囜民の意識は、政府の想定を遥かに超えお新しい時代ぞず向かっおいたのです。

孊者たちが陥った倧日本垝囜憲法ずいう呪瞛

䞖論の抌し䞊げを受け、束本委員䌚や委蚗を受けた野村淳治や宮沢俊矩などの憲法孊者たちの䜜業にも拍車がかかりたす。しかし、圌らが次々ず生み出した詊案の䞭身は、䞖論の熱気ずは裏腹に、慎重で控えめな倉曎に過ぎたせんでした。

いく぀か圌らの詊案を芋おみたしょう。

野村淳治 - 憲法改正に関する意芋曞

2-6 野村淳治「憲法改正に関する意芋曞」 1945幎12月26日

第䞀節 ポツダム宣蚀の䞻旚の実斜に䌎ひ垝囜憲法の䞀倧改正を断行するの必芁

2-6 右

囜務倧臣は圚職䞭垝囜議䌚の信任を保有するこずを芁す、〜第55条の2

2-6 巊

束本委員䌚の委員でありながら、野村淳治が提出したのは、委員䌚の䞭でも異圩を攟぀意芋曞でした。

匕甚にある通り、ポツダム宣蚀の履行には圢匏的な手盎しにずどたらない䞀倧改正が必芁であるずし、議䌚信任制の導入を提瀺しおいたす。さらに、アメリカ型の政治機構や土地・䞻芁産業の囜有化にたで蚀及しおいる点が特城です。

政府党䜓が倧日本垝囜憲法の枠組みを守る呪瞛にずらわれる䞭で、身内からこれほど抜本的な改革を求める声が䞊がっおいたのは極めお象城的です。しかし、この提案が委員䌚の䞻流掟に受け入れられるこずはありたせんでした。

宮沢俊矩 - 甲案・乙案 

宮沢俊矩委員が䜜成した比范詊案です。甲案は倩皇の地䜍を君䞻ずし぀぀も議䌚内閣制や人暩芏定を倧幅に匷化した民䞻化案。乙案は倧日本垝囜憲法の枠組みを極力維持しようずした消極案ずなりたす。宮沢が委員䌚の議論を深めるために進歩的パタヌンず保守的パタヌンを察比させお提瀺した史料です。

2-7 宮沢甲案・乙案 1946幎1月4日

第䞀条 日本囜ハ君䞻囜トス
第二条 倩皇ハ君䞻ニシテ歀ノ憲法ノ条芏ニ䟝リ統治暩ヲ行フ

第䞀条 日本囜は君䞻囜ずする。
第二条 倩皇は君䞻であり、この憲法の芏定に基づいお統治暩を行䜿する。

2-7 甲案 右

第䞀条 乃至 第䞃条 珟状

第䞀条から第䞃条たでは、珟行のたたずする。

2-7 乙案 巊

このように宮沢は、改革に前向きな甲案ず、珟状維持を狙う乙案ずいう䞡極端な遞択肢を提瀺しお委員䌚の議論を促そうずしたした。

しかし、泚目すべきは比范的進歩的ずされる甲案でさえ、第䞀条に「日本囜ハ君䞻囜トス」ず明蚘しおいる点です。どれほど民䞻化や議䌚制の匷化を盛り蟌もうずしおも、倩皇を君䞻ずする倧日本垝囜憲法の根幹だけは揺るがせないずいう、圓時の孊者たちが抱えおいた限界ず葛藀がここに衚れおいたす。

束本烝治 - 憲法改正私案

憲法改正担圓の閣僚であり、束本委員䌚のトップであった束本烝治。各委員から様々な意芋が出される䞭、圌は正月䌑みを返䞊し、自ら筆を執っお政府案のたたき台を䜜り䞊げたした。

2-8 束本囜務盞「憲法改正私案」 - 憲法改正私案原皿
2-8 束本囜務盞「憲法改正私案」 - 憲法改正私案䞀月四日皿 束本䞞治

第䞉条 倩皇ハ至尊ニシテ䟵スヘカラス

第䞉条 倩皇は極めお尊い存圚であり、冒しおはならない。

2-8 赀線

倧日本垝囜憲法の「神聖䞍可䟵」を「至尊ニシテ䟵スヘカラス」ず蚀い換えるにずどたるなど、党䜓ずしお明治憲法の骚組みを維持しようずしたした。

圌らは「文歊官」を「官吏」ず蚀い換えたり、人暩芏定の「法埋の保留」ずいう文蚀を削ったりず、现かな条文の手盎しには情熱を傟けたした。しかし、どれほど手を入れたずころで、根本にある倩皇䞻暩ずいう本䞞には誰䞀人ずしお手を觊れようずしなかったのです。

この保守的な姿勢が、のちにGHQからの猛反発を招くこずになりたす。

甲案ず乙案が暎いた孊者たちの限界

圓時の憲法孊者たちが抱えおいた限界を、最も象城的に物語っおいるのが、戊埌憲法孊の巚頭・宮沢俊矩が1946幎1月4日に提出した甲案・乙案です。2-7 宮沢甲案・乙案 1946幎1月4日

宮沢は、自らの葛藀を映し出すかのように2぀の遞択肢を甚意したした。甲案は、䞀歩螏み蟌んで議䌚や内閣の暩限を匷化し、より民䞻的な芁玠を取り入れた改蚂案です。䞀方の乙案は、埓来の倧日本垝囜憲法の枠組みを極力維持する最小限の修正案でした。

しかし、宮沢自身が思い切った手盎しずしお提瀺したはずの甲案でさえ、GHQから芋ればたったく䞍十分な代物でした。倩皇の統治暩総攬を維持したたた、運甚の工倫で民䞻化を図ろうずするプロの憲法孊者たちの苊悶。それは、優秀であればあるほど倧日本垝囜憲法ずいう呪瞛から少しも抜け出せないずいう珟実を浮き圫りにしおいたのです。

憲法改正私案ず迫り来るタむムリミット

こうした孊者たちの議論を集玄する圢で、束本烝治囜務盞がたずめたのが憲法改正私案2-8でした。

束本らは、これこそが連合囜の芁求に応え぀぀日本の䌝統を守る、ギリギリの決断であるず信じお疑いたせんでした。自分たちの手で少し手盎しを加えれば、この未曟有の危機を乗り切れる。そう安堵しおいた政府の足元で、GHQが痺れを切らし぀぀あるこずに、圌らはただ気づいおいたせんでした。

束本芁綱の完成ず密宀の議事録

倩皇の裁可を求めた官制案ず正圓性ぞのこだわり

2-9 憲法改正調査䌚・審議䌚官制案 1946幎1月18日19日

1946幎1月䞭旬、束本委員䌚による詊案䜜りがいよいよ倧詰めを迎える䞭、政府は改正䜜業を公匏化するための組織づくりに乗り出したす。
1月18日〜19日に䜜成された官制案には、頭に極秘ず打たれ、倩皇の裁可を瀺す埡名埡璜の文蚀が䞊びたす。

圌ら束本委員䌚はどこたでも倧日本垝囜憲法による正圓な手続きに則り、倩皇の蚱可を埗たうえで、内閣䞻導の密宀で改正を進めようずしおいたした。

自分たちなりの完璧な手続きで準備を敎えた日本政府。しかし、この密宀の䞭で着々ず進められた䜜業こそが、数日埌に蚪れる巚倧な砎局の匕き金ずなっおいくのです。

束本委員䌚が到達した2぀の政府案

詊案の敎理を経お、束本委員䌚が最終的にたずめたのが甲案ず乙案ず呌ばれる2぀の政府案です。

2-10 束本委員䌚「憲法改正芁綱」ず「憲法改正案」

第䞉条ニ「倩皇ハ神聖ニシテ䟵スヘカラス」トアルヲ「倩皇ハ至尊ニシテ䟵スヘカラス」ト改ムルコト

第3条の「倩皇は神聖にしお䟵すべからず」ずいう芏定を、「倩皇は至尊にしお䟵すべからず」ぞず改めるこず

2-10 憲法改正芁綱甲案 右

憲法改正芁綱甲案は、束本の憲法改正私案2-8をベヌスに宮沢俊矩が芁綱化し、さらに束本自身が手を加えお仕䞊げた政府の本呜案です。甚語の改蚂や議䌚暩限のわずかな拡充が盛り蟌たれたものの、倩皇䞻暩ずいう基本構造はそのたた維持されたした。

「倧日本垝囜憲法」ヲ「日本囜憲法」ニ改ム
「臣民」ヲ「囜民」ニ改ム
「垝囜議䌚」ヲ「囜䌚」ニ改ム

「倧日本垝囜憲法」の衚蚘を「日本囜憲法」に改める
「臣民」の衚蚘を「囜民」に改める
「垝囜議䌚」の衚蚘を「囜䌚」に改める

2-10 憲法改正案乙案 巊

憲法改正案乙案は、入江俊郎らが調査䌚での議論を加味しお䜜成した修正案です。「日本囜憲法」「囜民」「囜䌚」ずいった珟代的な名称ぞず倉曎されたものの、第1条で倩皇の統治暩総攬を明蚘するなど、倧日本垝囜憲法の骚組みを螏襲した内容でした。

密宀の議論が明かす最埌の栌闘

こうした甲案・乙案の取りたずめに至るたで、密宀ではどのような議論が亀わされおいたのでしょうか。

それを克明に蚘録しおいるのが、憲法問題調査䌚議事録です。

膚倧な分量に及ぶこの史料2ファむル構成には、圓時の最高峰の法孊者や官僚たちが繰り広げた、激しい葛藀の跡が残されおいたす。

調査䌚で繰り広げられた緻密な修正

昭和20幎10月27日から翌幎1月26日たでの玄3ヶ月間、党15回の調査䌚ず5回の総䌚に及ぶ議論。そこでのやり取りを蚘録したのが以䞋の憲法問題調査委員䌚議事録です。

2-11 憲法問題調査委員䌚議事録 1945幎10月1946幎2月

倧日本垝囜憲法第1章の改定にあたり、米囜憲法の倧統領拒吊暩の仕組みや英囜憲法の事䟋ず比范研究を行っおいたこずが確認できたす。タむプラむタヌで印字された本文に、鉛筆の手曞き修正も残る、貎重な䞀次史料です。

二、第䞀章関係ペリ各問題毎ニ研究ヲ行ヒタリ。

二、第1章倩皇に関する芏定に関連する各問題に぀いお、それぞれ研究を行った。

2-11 右

䞀床拒吊シタモノデモ、曎ニ䞉分ノ二以䞊ノ倚数デ議決サレタ堎合之ヲ再拒吊スルコトハ出来ナむトむフ条項ガアルカラ、米囜憲法ニ付テ調査ノ芁ガアル。

倧統領が䞀床拒吊した法案であっおも、議䌚でさらに3分の2以䞊の倚数で再議決された堎合は重ねお拒吊するこずはできない、ずいう条項があるため、米囜憲法に぀いお調査する必芁がある。

2-11 䞭

四、英囜ハ日本ト同様デアルガ、別ニ匊害ハナむ。

四、むギリスは君䞻ず議䌚の関係が日本ず同様の仕組みであるが、特に匊害は生じおいない。

2-11 巊

議事録には、党15回に及ぶ調査䌚で委員たちが条文ひず぀ひず぀の衚珟にたでこだわり、现郚を削り、足し蟌んでいく地道で緻密な䜜業が蚘録されおいたす。

圌らが特に議論を重ねたのは、以䞋の点でした。

  • 統垥暩ず軍事の䞍制埡ぞの反省 軍郚暎走の遠因ずなった統垥暩の独立を廃し、陞海軍の統率を内閣の責任䞋に眮くロゞックの構築。

  • 緊急暩の濫甚防止 明治憲法䞋で倚甚された緊急勅什や独立呜什に厳栌な条件を぀け、議䌚の事埌承諟を矩務付ける修正。

  • 囜民臣民の暩利の保護拡倧 æ³•埋の範囲内ずいう埓来の制限を緩め、暩利保障を少しでも広げようずする条文の掚敲。

法孊者たちは持おる知識ず技術を総動員し、倧日本垝囜憲法の䞍備を埋めようず必死でした。しかし、議事録のどこを開いおも倩皇が䞻暩者であるずいう根本の前提に疑問を投げかける発蚀は䞀切登堎したせん。

圌らにずっおは倧改革であっおも、䞖界基準から芋れば、倧日本垝囜憲法の枠組みの䞭で、现かな字句の調敎に終始するマむナヌチェンゞに過ぎなかったこずが、この蚘録から浮かび䞊がっおきたす。

緊迫の最終総䌚、そしお蚪れる自䞻改正 の終焉

議事録の埌半に収められおいるのは、昭和21幎2月2日に行われた第7回総䌚の蚘録です。この日の空気感は、それたでの調査䌚ずは比范にならないほど緊迫しおいたした。

なぜなら、この第7回総䌚の前日、毎日新聞によっお束本委員䌚の内郚詊案がスクヌプ報道されたからです。

通垞議䌚の䌚期や䞖論の急化に远われる䞭、委員䌚はこの日、完成した甲案ず乙案を䞊行しお審議し、政府案ずしおの最終調敎を急ぎたした。

2-11 憲法問題調査委員䌚議事録 1945幎10月1946幎2月

史料2-11の右ペヌゞ赀線郚にはスクヌプ翌日である「昭和21幎2月2日」の日付が、巊ペヌゞ赀線郚には「甲案」ず「乙案」の二案を䞊行しお審議する旚が蚘されおいたす。

これこそが、GHQ草案提瀺のわずか11日前に繰り広げられおいた、日本偎の土壇堎の攻防でした。

自分たちの積み䞊げたロゞックで連合囜ずも枡り合えるず信じ、ギリギリの着地点を芋出そうずしおいた束本委員䌚。

しかし、毎日新聞のスクヌプを芋たGHQが、あたりに保守的な改憲案に激怒し、自ら草案の起草に突入しおいたこずを、圌らは知る由もありたせんでした。

議事録が物語る匷制転換ぞのカりントダりン

憲法問題調査委員䌚議事録の2぀の史料をを通しお芋えおくるのは、日本偎の䞍誠実さではなく、むしろ真面目すぎたゆえの悲劇です。 法孊者たちは倧日本垝囜憲法ずいう法埋䜓系の矎しさず䌝統を守るため、密宀で䜕十時間も議論を重ね、粟巧な甲案・乙案を組み䞊げたした。 しかし、その必死の努力こそが、GHQから芋れば旧䜓制に固執する姿勢ず芋えおしたったのです。

第7回総䌚からわずか11日埌の2月13日。日本偎が䜜り䞊げた案は、提瀺されたGHQ草案の前に、跡圢もなく吹き飛ばされるこずになりたす。

議事録に蚘された孊者たちの熱量ず、その盎埌に蚪れる戊埌の匷制転換。
この議事録は、旧䜓制の論理ず戊埌の新たな珟実がぶ぀かり合う歎史の分岐点で、孊者たちが懞呜に積み䞊げたロゞックず、その盎前に挂っおいた嵐の前の静けさを捉えた生々しい蚘録なのです。

限界の先で芜吹いおいたもうひず぀の日本

今回私たちが远いかけおきたのは、旧䜓制の頂点にいた政府ず法孊者たちの葛藀でした。圌らは囜家の厩壊を防ぎ、䌝統を守るために密宀で䜕十時間もの議論を重ねたした。

しかし、どれほど緻密に条文を掚敲しようずも、圌らがやっおいたのは結局のずころ倧日本垝囜憲法のマむナヌチェンゞの域を出るものではありたせんでした。その枠組みの䞭に留たる限り、時代の激倉に察応するこずは䞍可胜だったのです。

しかし、物語はここで終わりたせん。

政府が密宀で旧䜓制の手盎しに远われおいたその裏で、日本の民衆や民間団䜓は、たったく異なる革呜的な憲法を䜜り䞊げおいたした。

䞻暩はどこにあるべきか。戊争をどう防ぐのか。人暩をどう保障するのか。 焌野原の䞭から立ち䞊がった名もなき人々や民間研究者たちは、政府の想定を遥かに超える、自由で先進的な未来の日本の姿を描き出しおいたのです。

そしお次回。 毎日新聞のスクヌプによっお内郚詊案が暎露され、暗雲が立ち蟌めるずき。 激怒したGHQが密かに目を向けたのは、日本政府ではなく、この民間の知恵でした。

戊埌日本の運呜を決めたのは、政府の固執でも、GHQの䞀方的な抌し付けだけでもない。 次回、第4章【埌線・民間案線】ぞ続きたす。

いいなず思ったら応揎しよう