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適切な努力と無駄な努力

『適切な努力』という言葉がある。これはスポーツでもゲームでも勉強でもなんでもいいが、おれの記事なので今回はゲームの話で話を進めよう。この『適切な努力』という言葉は、主に努力することの尊さを主張するときによく使われる。世の中には正しい努力と間違った努力があり、正しい努力を続ければ結果が出るが、間違った努力を続けても結果は出ないため、間違った努力をしないようにしよう、正しい努力をしようという主張である。

おれはこの主張に対してある程度同意している。おれのよく知るゲームの文脈であれば、はじめたての格闘ゲームで基礎的なコンボ練習ではなくキャラクター限定のマニアックな確定反撃を網羅しようとするのは間違った努力だし、自分のデッキのカードテキストを覚える前にどうでもいい期待値計算に精を出すのは結果に基づかない努力だと思う。

結果に基づかない努力を持ち出して、「おれはこんなに努力したのに結果が出ていない、このゲームはクソなのだ」とか、「おれはこんなに努力したのに結果が出ていない、ゲームとは努力ではなく才能なのだ」という見当違いの責任転嫁を行う人間がこの世にたくさん存在しており、そうした見当違いの人間を論破するために無駄な努力と適切な努力という枠組みを持ち出すのはある程度の正しさがある。

一方で、この適切な努力論の濫用に腹が立ってもいる。第一に、上達するとは対戦ゲームのたった一要素であるにも関わらず、あなたが上達していないのは適切な努力をしていないからであるとか、ただのマウンティングとして『適切な努力』を持ちだされることがあまりに多いからである。ゲームにおける重要な目的である楽しさやカタルシスの開放を犠牲にして、正しい努力をせよ、と要請する人間があまりにも多いのである。おれのデッキが環境最善でないことは自分でもわかっている。でもそれは決して勝ちたくないわけではない。勝ちたいの前に「こういうデッキで」とか「こういう戦い方」でという前提条件が付与されているだけなのだ。

元来ゲームに「間違ったプレイ」なんか存在しない。そこに期待値の低いプレイは存在するかもしれないが、それはゲーム攻略的な観点からみた時に期待値が低い、勝率が低いプレイなだけであって、間違っているわけではない。だいたい、人の生きざまが存分に反映されるゲームプレイという極めて個人的なそれを、誰が間違っているだとか正しいだとか、そんな烏滸がましい表現で決めつけることができるのだろう。

第二に、正しい努力は無駄な努力の先にあるとおれは考えている。効率のよい努力の仕方は先人たちの知識を持って学ぶことができるものも多いが、そもそもその先人の知恵というものがどういうものかを考えたときに、はじめから効率の良い結論になってはいなかっただろう、ということがある。膨大な時間を投資した無駄な努力をした上で結論付けられた「効率の良い努力」を模倣することには理があるが、その時重要になる視点は「ではなぜそうなったのか」ということだ。

単に「強い人がこう言っていたからこうなのである」、あるいは「攻略サイトに書いてあるからこうなのである」と盲目的に主張する人間は多い。今のインターネットがそういう作りになっているからしょうがないことでもあるのだが、わざわざ最強でない人間の配信にやってきて、最強の言葉を借りてなんらかの攻略情報をコメントで主張し、反論されたら「最強の〇〇さんがこう言っていたので」といって論破する。そんな奴は絶えない。そして「だからお前は最強になれないのだ。」と。その人はなんら最強でないのにも関わらずである。面白くない冗談だ。

重要なのはどういう過程を持ってその結論足らしめているか、という部分である。経験上、強者ほど間違った仮説や仮定を死ぬほど立て、死ぬほど修正している。あらゆる仮説を立て、検証し、膨大な時間を持って辿りついたその先が攻略なのであるが、そのことを見落としていると、本質を見誤る。つまり今の攻略が間違っている、あるいはアップデートによって通用しなくなった時に、元の前提に立ち返ったり、今まで無駄でしかなかった攻略を持ち出して考えることができるのは、無駄な努力の先に正しい努力に行きついた人間でしかない。最先端の攻略を生み出しうるのは、無駄な努力をやり続けた人間でしかないのだ。

昔自分がうっかり『ドラゴンクエストライバルズ』の月間ランキングで一位を取った時を思い返せば、途方もないクソデッキを毎弾大量に生産し続けた後、つまりは無駄な努力にリソースを注ぎ込み続けた結果、誰もたどり着かなかった一つの結論にたどりついたのが大きな要因だった。このエピソードを現代から俯瞰すると「誰でも冷静に考えればそのデッキにたどり着けた」と言いたくなるかもしれないが、1位を取った当時は本当に誰からもアンルシアアリーナが最強だとは思われていなかった。

これはただの自慢なのかもしれない。しかしそれを抜きにしても、果たしてこれは本当に、「無駄な努力」と言って唾棄できるものなのだろうか?

生み出すことは効率が悪いので、効率よく強者の攻略を模倣し続ければいいだけだと考える人もいるだろうが、人によって攻略の結論の形は違いうるという点から、この言い分には反論したい。つまり、将棋には「棋風」という言葉があり、ゲームにも「プレイスタイル」という言葉がある。最上位プレイヤーでも行きつく結論が違うゲームを、おれたちはたくさん見てきている。それはなぜそうなるかと言えば、人間の形が人それぞれ違うからである。人によって得意なことが違うから、その得意な形の利益を最大化するような攻略の結論というのも、また違い得る。

AIが最善手を示し続ける昨今の将棋を見ていると、攻略とは何か一つの結論があり、それに人間がいかに近づけるかという性質のように錯覚しがちだが、攻略とはプレイヤー分の数だけ結論が存在すると、おれは思っている。例えばAIが大きな大会でプレッシャーを感じることはないように、可視化できない人間のパラメータなんていくらでもあるからだ。

人によって攻略の形が違うとするなら、今は無駄にしかならない努力があったとしても、普遍的でない、一見効率が悪いようにしか見えない努力があったとしても、その先にしか辿りつけない、自分のみに適用される攻略というのも、あり得る。それはあり得ないかもしれないし、あり得ない確率の方が高いかもしれないが、しかしそれを「無駄」と表現することに、おれは傲慢さを感じている。

無駄な努力なんてない、というつもりはない。無駄な努力はある。しかし無駄な努力は、意外と楽しいことが多い。中学生の頃に覚えたGGXX無印におけるソル=バッドガイの前HS>ブリンガーからのコンボはレバガチャする相手には繋がらない代表的な高火力クソコンボだが、CPU相手には必ず決まるため、そこからDループを決めるのが楽しすぎて、一心不乱にやっていた記憶がある。これははっきりいってまったく無駄な努力なのだが、しかし有用なDループのパーツを覚えた点と、自分でも練習すればコンボができるようになるのだという自覚を得た点において、まったく無駄ではなかった。今のプロゲーマーが前HS>ブリンガーをやりだしたら正気を疑うが、中学生のおれにとっては「無駄だが意味のある」コンボパーツだった。

適切な努力はある。無駄な努力もある。忘れてはならないのは、無駄だが意味のある努力も、この世にはあるということである。



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