坊主にしても評価され、消費される悪夢
若い女が坊主頭にすることの何が面白いのか
と見出しを書きつつ、バージョンダウン後の自分の表情は自分で見ても笑えるものがある。
インタビューされた当時は夏バテとひどい抑うつで、友人が無理やり自宅に押し寄せて、何か外で美味いものでも食おうとなった後のことだった。面白いのは坊主頭よりもこのやつれた顔と眼光の鈍さで、なかなかの映像である。
とは言いつつ、なんでこんなにも私の坊主頭が注目されるのかの疑問は尽きない。
化粧をせずともある程度元気な様子、もしくは私の友人たちだったら坊主頭について言及することはなかった。
メディアでも答え、過去のnoteでも書いた通り、複合的な理由があるにしろ、私が後ろ髪を剃り上げたのは「坊主をかっこいいと思い、自分に似合うと思ったから」である。
以下に、ちょっと小綺麗にしていた時の坊主Chipicoの画像を載せてみる。

え、違和感ある?
前髪を下ろしてしまえば、正面から見た時はただのおねーさんだし、後ろ髪が剃られてても、ただかっこいい髪型をしているおねーさんである。
私は坊主での生活を楽しんでいたし、坊主ヘアでできるおしゃれも目一杯楽しんだ。そんな私をよそに、私の容姿について議論している人や、議論以前にこき下ろす人、そして坊主に至るまでの背景を邪推する人がインターネットで散見され、ひどく驚いた。
某番組OA直後、意図しない男女分断論争に話が進んだ時は、あまり好ましくないプラットフォームとは思いながらもXのアカウントを作り、ジャンヌダルクよろしく議論の間に入ったものだった。
何気ないイメチェンが「何かの意思表示」に変換されていく
以下に、坊主にしたての私の写真を載せておく。


この私を見て、それでも可哀想と思うだろうか?
この私が、何か高尚な意志のもとヘアスタイルを選んでいると思うだろうか?
どちらも否と言えよう。
しかし、某番組の構成上、キャッチーな理由づけを求められるだろう。坊主ヘアーにする理由の本心を語っている間にVTRは終わってしまう。そこで”おちょけ”の私が口に出したのは「女っぷりが良すぎて」「モテましたね」のこの二つである。
「女っぷりがいい」かどうか、「モテる」かどうか
その議論に果たして意味があるだろうか?
女っぷりやモテることは私の人生にとってどうでもいいことで、また私本人がそう考えている上、見知らぬ誰かにとっても私が真に女っぷりがいいかどうか、モテるかどうかなどといった議論の必要はないだろう。それでもインターネット上では絶え間なく、私を評価する批評家で溢れているように感じる。
どのような立場で評価しているのか、いささか疑問である。アイドルでもない、モデルや女優でもない、普通の女の子がふざけて「女っぷりが〜」とか、「モテが〜」って言ってるのに、何を真に受けているのか。まあ実を言うと批評家たちの存在はちょっと面白いと思っているので批評家の皆様はぜひ自身の生活をした上で私の容姿や生き方を議論していただけたら幸いである。
かっこいいから坊主ヘアーにした。
この一点は揺らぐことないイメチェンの動機だが、実際に当時辟易としていたのは「友人だと思っていた男性に恋愛感情を向けられること」「数を打って当てようとするナンパ師の存在」であることは確かである。
過去の私は私を救うための手段として、思い切り美容を学び、実践していた。そうすると副次的に男性たちが私を「可愛い」と言い始めた。
そうじゃない、そうじゃないんだ、と強く思った。
私が可愛いと言われたい人間は(烏滸がましくも)限定された人物のみであり、そうでない人に「可愛い」と言われても警戒するだけ。この「可愛い」という言葉の背景には性愛的なニュアンスを感じてしまい、どうも困ってしまう。私の望まぬ形で性愛の印象を抱かれて、それに応えられない事で愛する友人が消えていく。この現象がつらくてつらくてたまらなかった。
一緒に食事に行った時。私が苦学生だから食事をご馳走してくれたんじゃなかったの?
どこかに行った時。私が(以下略)多めに払ってくれたんじゃなかったの?
友人の面倒になって世話がないな、と自分で思いつつ、いつか夢が叶う頃にはお礼をしたいと思っていた。なのに。
あれだけそばにいたってことはそういうことだよ。
あんなにしてあげたいと思ったのは好きだからだよ。
友人としての愛ではなく、恋愛としてだったのか、と自分の鈍さに何度も落胆した。
モテたくて女っぷりを上げたんじゃねえ
私はモテたくて女っぷりを上げたのではない。
醜いと思っていた自分と訣別するために、そして愛する友人たちに誇れる人間であれるように、女っぷりを上げようと考えただけだった。そして坊主ヘアーにすることだって、魅力を失うことにはならないと信じていた。
坊主にする何年も前に、異性からアプローチを受けることで自分の美的価値を判断していた時代がある。切ないが、自分の美しさに自信を持つ前は、やはり他人の評価が価値判断の基準になった。たとえそれが下心によるものだとしても、嬉しかった。
坊主にしたのは大学入学後。つまり本格的に哲学と出会ってからだ。美しさとは何ぞやを問うのに美学の知識は私の脳内のもやを払ってくれた。私は優秀な学生ではなかったが、できるだけ多くの学びを吸収しようと必死だった。だからこそ、大学時代の学びは今でも私が社会という戦場で生きる上での武器になっている。
恋愛市場は懲り懲りではある。
容姿やスペックなどを競走馬のように評価され、選んだり選ばれたりして、ようやく恋愛関係に至るようである。手っ取り早いのだろうが、恋愛市場の杓子定規で評価されることは私は望むところではない。身近な人の身近な人、くらいの範囲内で、ふとした優しさに恋をしたいのかもしれない。そもそもクワロマンスの私にとって友愛も性愛もノーバウンダリーなので、友人たちにバカデカ恋愛感情を抱いていると言える。
Chipicoの女っぷりはこれからも
可愛いもかっこいいも自在でありたい。私は私が望む私にいつでも”成れる”私でいたい。女っぷりを上げていく努力はこれからも重ねていくつもりである。
何をもって女っぷりと言うかはあえてここでは制限しないでおこう。
日々哲学をし、眠りから目覚めてまた眠る時まで健康でいて、晴れの日は抜ける青空を見上げ、雨の日は空気の匂いを胸いっぱいに吸い込み、何が真なる優しさなのか考え続け、実践し続け、生活を続けること。メーキャップやファッションは自分の心が健やかであるために利用し、自分の姿で自分自身をモチベートできるように。
そして真なる意思表示はこのような場所で、自分の言葉で紡いでいく。
どうかあなたに伝わりますように。
真なる意志が、私のままならなさが、それでも生きたいということが。
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