万葉集巻二 159番
万葉集巻二 159番
天皇の崩りましし時に、大后の作りませる御歌一首
159
やすみしし わご大君の
夕されば 見し賜ふらし
明け来れば 問ひ賜ふらし
神岳の 山の黄葉を
今日もかも 問ひ給はまし
明日もかも 見し賜はまし
その山を 振り放け見つつ
夕されば あやに悲しび
明け来れば うらさび暮し
荒栲の 衣の袖は 乾る時もなし
原文:
天皇崩之時大后御作歌一首
159
八隅知之 我大王之
暮去者 召賜良之
明来者 問賜良志
神岳乃 山之黄葉乎
今日毛鴨 問給麻思
明日毛鴨 召賜萬旨
其山乎 振放見乍
暮去者 綾哀
明来者 裏佐備晩
荒妙乃 衣乃袖者 乾時文無
訳:
天武天皇がお隠れになった時に、大后がお作りになった御歌一首
159
国の隅々までお治めになった 我が大君は
夕暮れになると 見ていらっしゃるらしい
朝になれば お聞きになるらしい
神山の 山の黄葉を
今日も お聞きになってください
明日も ご覧になってください
その山を はるかに望みながら
夕暮れになると 妙に悲しく
朝になれば 寂しさのうちに日が過ぎ
質素な喪服の袖は 乾く時もない
説明:
大后は、持統天皇のことです。天武天皇の皇后でいらっしゃるときの特別な呼び名はありません。天武天皇が神の丘やそこの黄葉に朝な夕な、ご覧になり声をかけていらっしゃった、今日も明日もこれからも、そうなさると思っていたのに、今はその朝にも夕にも私が泣いているだけだ、と言う歌です。
神の丘は、雷丘と言われています。天武天皇の宮は飛鳥浄御原宮で、この宮から雷丘は北西300mほどにあるからと言うのが根拠でした。ところが近年になって浄御原宮はそこから800mほど南であることがわかり、雷丘は甘樫丘が邪魔になって、微妙に見えるか見えないかの位置になりました。それでも、今のところ雷丘説は変わっていないようです。
持統天皇は、天智天皇と蘇我遠智娘の娘さんで、鸕野皇女と言う名前です。鸕野讃良皇女と記されていることが多いです。讃良は「ささら」と読まれていることもあります。大化元年(645)生まれで、13歳の時に、父親の弟の大海人皇子(のちの天武天皇)の妻になります。大海人皇子はこの時、およそ30歳ぐらいだと思います。
日本書紀には、天智天皇元年(662)に娜大津宮(福岡県博多市)で草壁皇子を生んだとあります。17歳です。日本書紀の記述はちょっとおかしくて、斉明天皇七年(661)に、斉明天皇は滅んだ百済を助けるために九州へ行幸なさいますが、7月に朝倉宮(福岡県朝倉市)でお隠れになってしまい、11月ごろには棺とともにみんなで大和へ帰っています。天皇が崩御されたのに大海人皇子と鸕野皇女は、九州に居残っていたのでしょうか。ちょっと変だと思います。
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