皇室史入門(3)...享保〜安永の45年危機を女帝と宮家で乗り越えた柔軟性~後桜町天皇と光格天皇の功績~
はじめに
皇室史入門第1回は、明治天皇の15人の子と5人の側室をテーマに、天皇家の側室制度が大正期に一夫一婦制への転換をしたことを説明しました。
第2回は天皇家の側室制度と男系継承の関係、さらに8人10代の女帝(女性天皇)の個別事情を説明しました。
今回は、江戸時代の1735年(享保20年)から1780年(安永9年)までの45年間の5人の天皇の即位の事情を学びます。
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(1)桜町天皇~光格天皇の流れ
①桜町天皇(115代)は、1735年、15歳で即位し、1747年に子の桃園天皇へ譲位して院政を開始するも1750年に31歳で崩御。
②7歳で即位した桃園天皇で22歳で崩御したが、桃園天皇の子はまだ5歳。
③1762年桜町天皇の第2皇女 (独身)が、桃園天皇の子(甥)が成長するまでの条件で即位(後桜町天皇)。
天皇家では119年ぶり、7人目の女帝となる。
④1771年が桃園天皇の子が成人(13歳)し、後桜町天皇の譲位により即位(後桃園天皇)したが、在位中は病気ががちで22歳で在位のまま崩御。
⑤後桃園天皇が2皇女しか残さなかったため、皇統断絶を避けるべく閑院宮家から9歳の祐宮(師仁王、のち兼仁)が急遽養子として擁立され即位。
桃園天皇から見て光格天皇は再従叔父の遠い関係(7親等の傍系)だった。
⑥光格 ─ 仁孝 ─ 孝明 ─ 明治 ─ 大正 ─ 昭和 ─ 上皇 ─ 今上天皇 と直系で8代続いている。
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(2)歴代の天皇
①第115代 桜町天皇
在位1735年4月13日~1747年6月9日
(12年2か月・のべ4,480日間)
(父)第114代 中御門天皇 第一皇子
(生母)近衛尚子(新中和門院、女御)
(生母の父)近衛家熙(関白・太政大臣)
即位の経過
【父中御門天皇の譲位により即位、朝廷儀式復興に尽力】
享保20年(1735年)、父中御門天皇から譲位を受け15歳で践祚。即位後は関白一条兼香の補佐と将軍徳川吉宗の助力のもと、朝廷の儀式復古に注力。
大嘗祭の再興をはじめ、新嘗祭や各種廃典の復活、女官制度の整備などに取り組み、天皇の権威向上を図った。
延享4年(1747年)に第一皇子の桃園天皇へ譲位して院政を開始するも、寛延3年(1750年)に脚気衝心により31歳で崩御。
(参考 Wikipedia)
②第116代 桃園天皇
在位1747年6月9日~1762年8月31日
(15年2か月余・のべ5,570日間)
(父)第115代 桜町天皇 第一皇子
(生母)姉小路定子(開明門院、典侍)
(生母の父)姉小路実武(権大納言)
即位の経過
【父桜町天皇の譲位により幼少で即位】
延享4年(1747年)、7歳で立太子と同時に父桜町天皇から譲位を受け践祚。
即位後は学問(特に漢学)に深く傾倒し、蹴鞠の作法にも優れたと伝えられる。
在位中には宝暦事件(*1が発生し、朝廷内の尊王論者らが処罰されるなど波乱もあったが、22歳の若さで脚気衝心により崩御。
(参考 Wikipedia)
③第117代 後桜町天皇
在位1762年9月15日~1771年1月9日
(8年4か月・のべ3,039日間)
(父)第115代 桜町天皇 第2皇女
(生母)二条舎子(青綺門院、女御/正室相当)
(生母の父)二条吉忠(関白・左大臣)
即位の経過
【幕末直前、幼い甥(後桃園天皇)が成人するまでの中継ぎ】
桃園天皇が22歳の若さで急崩御した際、遺された息子の英仁親王(のちの後桃園天皇)は5歳。
摂関家など朝廷内での話し合いにより、叔母である彼女が中継ぎとして即位することが決定した。
甥の英仁親王が13歳元服を迎えたタイミングで譲位し、無事に男系男子への継承を完了させた。
後桜町天皇の上皇時代は、譲位後も後見役として光格天皇の教育などに影響力を発揮した。
和歌2000首近く、論語学習、謙虚な教訓歌(「窓」の歌)など国母としての後見役としても評価される。(*2)
(参考 Wikipedia)
④第118代 後桃園天皇
在位1771年1月9日~1779年12月16日
(8年11か月余・のべ3,268日間)
(父)第116代 桃園天皇 第一皇子
(生母)一条富子(恭礼門院、女御)
(生母の父)一条兼香(関白・太政大臣)
即位の経過
【伯母後桜町天皇の中継ぎ後の正統継承】
父桃園天皇崩御時5歳と幼かったため、伯母の後桜町天皇が中継ぎとして即位。
明和5年(1768年)に立太子(非今上皇子の太子としては400年ぶり)、明和7年に伯母の譲位により即位した。
在位中は病気がちであり、安永の御所騒動などの事件もあったが、22歳で在位のまま崩御。
皇女欣子内親王のみを残したため、閑院宮家から養子を迎えることとなった。
(参考 Wikipedia)
⑤第119代 光格天皇
在位1780年1月1日~1817年5月7日
(37年4か月余・のべ13,614日間)
(実父)閑院宮典仁親王(追尊慶光天皇) 第六皇子
(生母)大江磐代(岩室宗賢の娘)
(養父)第118代 後桃園天皇
即位の経過
【後桃園天皇急逝後の傍系からの入嗣】
後桃園天皇が22歳で崩御し、皇女しか残さなかったため、皇統断絶を避けるべく閑院宮家から9歳の祐宮(師仁王、のち兼仁)が急遽養子として擁立され即位。
東山天皇の皇孫筋で血統的に近く、未婚であったことが選ばれる要因となった。
在位中は朝廷儀式の復興や朝権回復に努め、天明の大飢饉時には民救済を幕府に働きかけるなど積極的に行動。
文化14年に仁孝天皇へ譲位(一世一元制導入前の最後の譲位天皇)し、太上天皇として1840年まで在世した。
(参考 Wikipedia)
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(3)天皇制維持に必要だった柔軟性
①後桜町天皇の即位再考
❶後桜町天皇の即位は、単なる「女帝の中継ぎ」以上の意味を持っていた。
❷桃園天皇の急逝時、皇太子予定者の英仁親王(後の後桃園天皇)はわずか5歳。
幼帝即位は政治的リスクを伴う。特に、宝暦事件で摂関家と天皇側近の対立が顕在化していた当時、幼い天皇の周囲に新しい側近衆が形成されることを朝廷上層部は強く警戒した。
❸五摂家を中心とした協議の結果、血縁的に近く政治的に中立的な桜町天皇の第2皇女・智子内親王が選ばれた。
彼女は桃園天皇の異母姉であり、甥の成長を待つ「つなぎ」として最適だった。
明正天皇以来119年ぶりの女帝誕生は、朝廷内にも反対意見(「末世の珍事」との批判)があったが、直系優先の原則が男系男子の原則を上回る形で決着した。
❹後桜町天皇は在位8年余り、甥が13歳で元服したタイミングできっちり譲位。
女帝として大嘗祭などの重要儀式を執り行い、皇室の伝統維持に貢献した。
この事例は、天皇制が危機に直面したとき、性別や慣例を超えた柔軟な対応が可能だったことを示している。
❺歴代女帝(女性天皇)8人10代
1.第33代 推古天皇
在位593年1月15日~628年4月15日
(35年3か月・のべ12,874日間)
2.第35代 皇極天皇
在位642年2月19日~645年7月12日
(3年5か月・のべ1,240日間)
3.第37代 斉明天皇
※皇極天皇の重祚
在位655年2月14日~661年8月24日
(6年6か月・のべ2,384日間)
4.第41代 持統天皇
在位690年2月14日~697年8月22日
(7年6か月・のべ2,747日間)
5.第43代 元明天皇
在位707年8月18日~715年10月3日
(8年2か月・のべ2,969日間)
6.第44代 元正天皇
在位715年10月3日~724年3月3日
(8年5か月・のべ3,075日間)
7.第46代 孝謙天皇
在位749年8月19日~758年9月7日
(9年1か月・のべ3,307日間)
8.第48代 称徳天皇
※孝謙天皇の重祚
在位764年11月6日~770年8月28日
(5年9か月・のべ2,122日間)
9.第109代 明正天皇
在位1629年12月22日~1643年11月14日
(13年11か月・のべ5,076日間)
10.第117代 後桜町天皇
在位1762年9月15日~1771年1月9日
(8年4か月・のべ3,039日間)
✳️8人10代の女帝の統治の合計は、
約106年4ヶ月(365日換算、38,833日間) に及んだ。
✳️8人10代の女帝(女性天皇)については👇
②光格天皇の即位再考
❶江戸時代(四親王家:伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮)の宮家は、直系男子が途絶えた場合の皇位継承のスペアとして機能した。
閑院宮家は新井白石の建議により江戸中期(1710年頃)に創設されたバックアップのためのもの。
❷後桃園天皇(第118代)が21歳で急逝し、皇子がおらず直系が断絶の危機に陥った。
後桜町天皇(女帝)らの協議で、閑院宮家から9歳の兼仁親王が選ばれ、光格天皇として即位。
7親等の傍系でありながら、東山天皇の血統に近く、未婚だった点が選定理由となった。
在位37年の長きにわたり朝廷儀式の復興に努め、後の明治維新期の天皇家基盤を築いた。
現在の天皇家(仁孝・孝明・明治・大正・昭和・平成・令和)の直系祖先となった。
現皇室は閑院宮系である。(*3)
❸後桃園天皇の父の父の父の弟の子の子が光格天皇で、7親等である。
(後桃園天皇の父桃園天皇の父桜町天皇の父中御門天皇の父東山天皇の子直仁親王の子典仁親王の子が光格天皇)
共通の祖先は第113代東山天皇。
東山天皇には、中御門天皇(兄)と直仁親王(弟)の子がいた。
中御門天皇→桜町天皇→桃園天皇→後桃園天皇。
直仁親王→典仁親王→光格天皇→
光格天皇。
桃園天皇から見て光格天皇は再従叔父の遠い関係(7親等の傍系)となる。

❹宮家は「万一の保険」として、皇位継承の「セーフティネット」として運用され、皇室の存続に大きく寄与した。
江戸時代は幕府の財政制限で宮家が四親王家に固定され、特に閑院宮家は、皇統断絶時の保険として設計された。
光格天皇の即位は、その仕組みが実際に機能した最も成功した事例である。
❻歴代天皇の中で、直系の血筋が途絶え、前の天皇と7親等以上離れて即位した(皇位が大きく移動した)事例は、光格天皇の外、以下の3例がある。
第26代 継体天皇(10親等)
第25代武烈天皇が子供を残さずに崩御したため、第15代応神天皇の5代目の子孫(5世の孫)にあたる継体天皇が迎えられて即位しました。第49代 光仁天皇(8親等)
第48代称徳天皇が崩御した際、天智天皇の血筋(天武系)が絶えたため、第40代 天武天皇の孫にあたる白壁王(光仁天皇)が即位しました。第102代 後花園天皇(8親等)
第101代 称光天皇が子供を持たずに崩御したため、北朝の第1代光厳天皇まで8代遡り、伏見宮家の彦仁王(後花園天皇)が即位しました。
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(4)現代への教訓
①この享保20年からの45年間は、皇室史における「危機管理の好例」だ。
②男子早世が相次ぐ中、女帝による中継ぎと宮家からの養子入嗣という二つの柔軟策で男系継承を維持した。
③現代の皇室も、少子化・高齢化という課題に直面している。
④過去の歴史は、「男系男子」に固執しすぎず、伝統を尊重した上での現実的な対応が皇統の連続性を支えてきたことを教えてくれる。
光格天皇以降の直系継続は、江戸時代の「セーフティネット」がなければあり得なかった。
⑤皇室典範の議論においても、血統の近さ・直系志向・危機時の柔軟性を忘れてはならない。
⑥2000年続く天皇制の強靭さは、硬直したルールではなく、時代に応じた賢明な判断の積み重ねによるものだ。
私たち現代人も、伝統を大切にしつつ、柔軟に未来を切り開く姿勢を学べるだろう
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(5)まとめ
①享保20年〜安永9年(1735〜1780年)の皇室危機を乗り越えた柔軟性
江戸中期、男子早世が相次ぎ皇統断絶の危機に直面した45年間。
朝廷は女帝の中継ぎ(後桜町天皇)と宮家からの養子入嗣(光格天皇)という二つの柔軟策で男系継承を維持した。
②後桜町天皇(第117代)は、幼少の甥(後桃園天皇)の成長まで119年ぶりの女帝として中継ぎ役を果たし、政治的中立性と直系優先で危機を回避。
③後桃園天皇急逝後、7親等の傍系・閑院宮家の9歳祐宮が光格天皇として即位。
以後、仁孝・孝明・明治…今上天皇まで直系8代が続く基盤を築いた。
④これは、直系志向・血統の近さ・危機時の柔軟性が天皇制の強靭さを支えてきた好例である。
2000年続く皇室の歴史は、硬直したルールではなく、時代に応じた賢明な判断の積み重ねだった。
私たちも伝統を尊重しつつ、現実的な対応を学ぶべきだろう。
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【注記】
*1
宝暦事件は、江戸時代中期に尊王論者が弾圧された最初の事件。首謀者と目された人物の名前から竹内式部一件とも呼ばれる。 国学者、神道家の竹内式部の大義名分論の講義を受けた公卿十数人が、侍講を説いて式部の説を桃園天皇に進講させた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/宝暦事件
*2
森暢平氏(1964年~、成城大教授)は、
『後桜町天皇は1770(明和7)年までの8年間、英仁が12歳になり後桃園天皇となるまで皇位に留(とど)まる。その後、73歳で亡くなるまでの43年間、上皇として、後桃園、次々代の光格天皇の後見役を果たす。
後桜町は2000首近くの和歌を残した。1788(天明8)年、「窓」と題し、次の歌を詠んでいる。
まな(学)びえぬ/おろ(愚)かさは(恥)づる/窓のうち/雪の光を/いく(幾)へ(重)そ(添)へても
雪の光を窓を通して浴びながら学び続けても、なお学びは尽きることがないという意味である。謙虚であることの大事さを自分に対して戒める歌であったが、同時に、当時17歳であった光格天皇への教訓歌でもあっただろう。
後桜町は譲位後も論語を学び、「仁」「恕」の概念を、31歳年下の光格天皇に書き付け、天皇としてのあり方を、女性らしいこまやかさをもって説き続けた。中御門系の天皇本家に残った者として、大姪(おおめい)の夫(光格)に天皇のあり方を教えなければならないという決意を持った生涯であった。』と記述している。
【出典】
*3
第118代後桃園天皇が、安水8年(1779)に満21歳にして突然崩御(天皇が亡くなること)となりました。このとき天皇に皇子はなく、まだ生まればかりの欣子内親王が一人遺されただけでした。
そのうえ天皇の近親に皇族が一人もいなかったため、問題となりました。
空位を避けるために後桃園天皇の崩御はしばらく黙されることになり、その間にさまざまな策が検討されました。
この時代、皇太子を立てるにも幕府の承認を得る必要がありました。
朝廷は後桃園天皇がまだ存命であることにして、天皇の重体を伝え、世継ぎを誰にするか、幕府と話し合いを始めました。
朝廷は先例を調べ、傍系から即位した継体天皇と後花園天皇の例に従うことにしました。
たとえ遠縁であろうとも、皇位の男系継承を保つことを最優先しました。
世襲親王家のうち近年創設したばかりの閑院宮典仁親王の子でまだ満八歳の祐宮を、後桃園天皇の猶子としたうえで世継ぎとすることに決めたのです。
猶子とは親子関係を結ぶ制度のことで、祐宮は天皇の子となって世継ぎとされました。
そして、翌月になって祐宮が世継ぎとなることを発表し、祐宮は閑院宮邸から天皇の居所である禁裏御所に移り住み、皇位の証である剣 (三種の神器のうちの剣と勾玉)を受け継ぐ践酢の儀をすませました。
こうして第119代光格天皇が誕生し、朝廷はついに後桃園天皇の崩御を公表しました。
光格天皇は第113代東山天皇の男系の曾孫で、先代の後桃園天皇とは七親等の遠縁にあたります。
綱渡り的な皇位継承になりましたが、男系による皇位継承を確保することができました。
また、後桃園天皇の皇女である欣子内親王が、光格天皇の皇后とされました。
これは継体天皇の先例に倣ったものです。
光格天皇は38年間在位し、その後も上皇として23年間、通算すると約60年間君臨したことになります。
その長さは、実質的には、飛鳥時代以降で在位期間が最長の昭和天皇にほぼ匹敵します。
光格天皇は歴代天皇のなかでも、特に理想的な天皇像と君主意識を明確に持ち合わせていた天皇でした。
それは傍系から即位したことが強く影響していると思われます。
その劣等意識こそが、理想的な天皇像を追い求める光格天皇の気概を形成したと考えられます。
【出典】
国史教科書編纂委員会
『検定合格 国史教科書第7版 中学校社会科用』令和書籍 令和6年7月15日第1刷発行 241~243頁
