見出し画像

急いだ5分が、人生を変えることもある。

雨は、夕方から細くなったり太くなったりを繰り返していた。

工場の出荷ヤードには、濡れた鉄と機械油の匂いが溜まっていた。

開いたウイングの内側で、蛍光灯の白い光が荷物の角を照らしている。

時刻は18時42分。

高速に乗れば、今日のうちに次の土地まで行ける。

ただし、ここを早く出られれば、の話だった。

荷物を積み終えた若い作業員が、ラッシングベルトの前にしゃがんでいた。

1度締めたベルトを緩め、また締める。

金具が荷台の床に触れ、カン、と乾いた音を立てた。

「もうええやろ」

離れたところから声が飛んだ。

若い作業員は返事をせず、軍手の指でベルトのねじれを直した。

伝票を持った人が腕時計を見る。

こちらも時計を見る。

運送業では、時計を見る人間が増えるほど、なぜか時間が減っていく。

あと5分早く出たい。

たった5分。

信号1つ。

コンビニで温めてもらう弁当1つ。

渋滞なら、ほとんど誤差みたいな時間だ。

それでも仕事になると、その5分が妙に大きな顔をする。

若い作業員は荷台を1周した。

後ろの扉を閉めかけ、また開いた。

今度は荷物と荷物の隙間へ手を入れた。

雨がウイングの屋根を細かく叩いていた。

バックブザーが遠くで鳴り、フォークリフトのタイヤが濡れた路面を擦った。

「何かあった?」

声をかけると、若い作業員は荷物の下を指した。

薄い木片が1枚、少しだけずれていた。

積み荷の重さから見れば、割り箸みたいなものだった。

だが、その割り箸みたいなものを直すために、フォークリフトがもう1度動いた。

荷物を数センチ浮かせる。

木片を入れ直す。

荷物を降ろす。

ベルトを締め直す。

5分どころか、8分かかった。

伝票を持った人は、もう腕時計を見なかった。

若い作業員は荷台の縁を手のひらで2度叩いた。

「これで大丈夫です」

それだけ言って、濡れた軍手を腰のポケットへ押し込んだ。

工場を出ると、国道のアスファルトは雨を吸って黒く光っていた。

閉まった食堂。

明かりの消えた自動車工場。

田んぼの向こうに並ぶ送電線。

住宅地の窓には、夕飯の時間らしい黄色い灯りが点いていた。

トラックの中には、昼に買った缶コーヒーが残っていた。

口をつけると、すっかり冷たくなっていた。

高速道路へ入ってしばらくすると、前方のブレーキランプが一斉に赤くなった。

雨の中で、その赤だけがやけに鮮やかだった。

エアブレーキを踏む。

荷台の奥で、ベルトが低く鳴った。

ギュッ、と何かを堪えるような音だった。

車列は止まり、すぐにまた動き出した。

荷物は動かなかった。

木片も、おそらく元の場所にいた。

次のサービスエリアへ入り、輪止めを入れた。

傘を差さずに荷台へ回る。

雨水が首筋から作業着の中へ入った。

扉を開けると、ラッシングベルトは張ったままだった。

薄い木片も、荷物の下で黙っていた。

あの若い作業員の名前は知らない。

たぶん、もう会うこともない。

こちらが急いでいたことも、彼は知らないだろう。

彼が使った8分は、伝票には書かれない。

請求書にも載らない。

運行記録には、ただ出発が8分遅れたとだけ残る。

急いで取り戻した5分は評価される。

立ち止まって確かめた5分は、何も起きなければ存在しなかったことになる。

雨の駐車場で、ウイングを閉じた。

金属の重い音が、夜の端まで転がっていった。

何も起きなかった1日は、本当に何もなかった1日なのだろうか。

いいなと思ったら応援しよう!