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OZ-2 ・ §17  『秘密曼荼羅十住心論』と世界の弁証法

 「天長六本宗書」とは、淳和天皇の命によって天長7年(830)に三論・法相・華厳・律・天台・真言の6つの宗から提出された「教義の解説書」を指します。天皇からの要請を機に、空海は長々と練り上げてきた主著を一冊の書物に仕上げ、『秘密曼陀羅十住心論』という重々しい題名を掲げて上奉します。それが勅命を受けた後に書き始められた作品でないことは、その分量からも明らかです。『十住心論』は、空海全集・第一巻の全部を占める700ページを超える大著(訳注を含む)であり、漢文だけが並ぶ写本(仁和寺本)も同じぐらいのページ数です。これから私たちは、空海の主著を読み解いていくのですが、その前に、優れた仏教学者で空海全集の監修者でもある宮坂宥勝氏の解説文の中から、私たちに必要な箇所を抜き出しておきましょう。『『秘密曼陀羅十住心論』十巻は、『秘蔵宝鑰』三巻とともに、空海の主著である。古来、前者を広論、後者を略論と称しているように、内容的に密接な関係にある。『十住心論』がさきに著わされ、『宝鑰』はその厖大な引用文などの大半を省略し、叙述も簡潔である。‥‥すべての人びとが本来具有している曼荼羅は、いまだ悟らざるものにとっては秘密である。しかしながら、そうした秘密なる曼荼羅の世界は、諸種の「住心」として開示されているのである。十住心とは、低次元の心の世界から高次元の世界へと次第に進展し向上する過程を、かりに十段階に分けたものである。‥‥十住心体系には、思想史的な展開が俯瞰される。第一住心は倫理以前の世界、‥‥第二住心では儒教、第三住心ではバラモン教、インドの諸哲学思想がほとんどすべて包含されている。第一住心より第三住心は世間三箇住心といわれるように、仏教以外の思想であり、第四住心・第五住心は小乗仏教、第六住心以上は大乗仏教である。第六住心の法相宗、第七住心の三論宗は古典的な呼称では「権大乗」であって、大乗に準ずるもの、第八住心の天台宗と第九住心の華厳宗はいわゆる「華天両一乗」といわれるところの「実大乗」である。第十住心は真言宗の立場であるから、「秘密荘厳」の語の説明に続いて、真言は「法曼荼羅」として表現されていることを明らかにする。‥‥第十住心の巻末は欠損しているのであるが、おそらく法身が永遠に真理を説いているそれが、ほかならぬ「大真言」である旨が述べられていたものと推定される。‥‥本書の題名「秘密曼荼羅」なる真言密教の世界は、すなわち第十秘密荘厳住心なのであって、それはとりもなおさず十住心として展開していること、すなわち十住心すべてを包摂していることが知られる。』(全1・739~750)

 §17では『秘密曼荼羅十住心論』を「世界の弁証法」として読み解いていくのですが、その前に、世界と住心の関わりを取り上げつつ、「世界の弁証法」の意味を明らかにしておきましょう。

17-1 世界と住心


 現代の日本人が用いている「世界」という熟語にあたる仏教用語は、三世三界ではなく「世間」です。世間は、サンスクリット語「ローカ・ダトゥ」の漢訳語で、ローカは「滅すべき物」を、ダトゥは「界」(空間、領域、場所)を指します。このように、世間は、もとは「あらゆる滅すべき物が1つに集まっているトコロ」を意味し、世界(ワールド)よりも宇宙(スペース)に近い概念だったのですが、日常語として定着していく間に「多くの人間がその中で暮らしているトコロ」(世の中)というほどの意味で用いられるようになります。明治時代に入ると、世界はワールドの訳語として用いられるようになりますが、昨今では、世界という熟語は、どちらかと言えば英語のソサイエティ(特定の人間の集まり)に近い意味で用いられています。そのため世界は、そのつど私たちが何について語っているかによって、地球(あらゆる人間の世界)、国(例:日本=日本人の世界)、社会(法律・経済・言語・習慣などの「同じルール」の中で暮らしている人間の世界)、団体(例:キリスト教信者の世界)、家庭(家族の世界)などの様々な意味に用いられていますが、これらの名前には、もれなく「居場所」という意味が含まれています。世界とは「人間の居場所」に他ならず、その中に暮らしている様々な人間と・人間の行ないを支えている様々な物が・1つに集まっているトコロ(存在)を指します。つまり、世界は「存在概念」なのです。

 私は、私たちが「そこ」において・様々な道具を用いて何かをしているトコロを「セカイ」と呼んでいます。私たちは、ほとんど常に「みずから開いているセカイ」(この私のセカイ)の内に居ます。セカイは「物の集まり」でも「人間の集まり」でもなく、私たちのあらゆる行ないを成り立たせている「個々の人間の居どころ」を指します。ちなみに、私は「存在」をトコロと呼んでいます。人間の居ドコロとは「人間の存在」に他ならず、私はそれを「ココロ」と呼んでいます。セカイは日頃のワタシのココロであり、日頃のワタシとは、様々な道具を用いて何かをしているワタシ(ミンナ)を指します。ミンナは、常に用いうる道具のすべてを見渡しつつ、その中から「~するための道具」を選び出しつつ、それらを身体とともに用い合わせて何かをしています。セカイとは、そこにおいて用いうる道具のすべてが見渡されているトコロを指しますが、ココロは道具(物)だけでなく存在をも見渡しています。つまり、セカイは限られたココロ(存在を隠しているココロ)なのであり、たとえれば私たち一人一人が自分で建てて・その中でくつろいでいる「ミンナの家」なのです。私たちは、セカイが「見える」ようにならない限り、世界、宇宙、世間、社会などの熟語が何を意味しているのか(どのようにしてセカイを隠しているのか)を捉えられません。空海もセカイをあからさまに捉えられなかったのであり、そのため心を「内」として」、世界を「外」として捉えてしまいましたが、セカイは「ココロの内」を、ココロは「セカイの外」を指しています。つまり「内」は「限られた」を、「外」は「超えた」を意味しているのです。

 私が言うセカイを初めて見い出したのは、かのマルティン・ハイデッガーです。と言うより、セカイはハイデッガーのヴェルト(Welt)の訳語なのです。ハイデッガーは、主著『存在と時間』の第1部・第1編でセカイの分析を繰り広げ、人間の存在(ダーザイン)を世界・内・存在(独:In-der-Welt-sein)と呼びました。セカイは、私たち一人一人が、その内で暮らしている居場所なのであり、ハイデッガーは存在を「場所」(トコロ)として捉えていたのです。晩年のハイデッガーは、存在を das Offene(開かれたトコロ)と呼び、真理を Lichtung(照らし出されているトコロ)と呼びました。セカイは、そこにおいて物が道具として照らし出される開かれたトコロです。私たちは、常にセカイの内で・道具を用いて・何かをして居るのであり、「居る」は「住む」を意味します。心の段階を「住心」と呼んだ空海は、ハッキリとではなかったにせよセカイを見ていたのですが、物を道具として捉えることはできませんでした。セカイが見えるようになるには、個々の物を道具として捉えられるようにならねばなりません。日頃の私たちは、道具もセカイも捉えていないがゆえに、物を「物質の集まり」(物体)として、世界を「物体の集まり」として捉え、「物だけが存在すること」を「現実」と呼んでいますが、現実とは、常にメノマエを目の前にし続けていることを言います。セカイは、私たちのメノマエに限られたトコロとして開かれているワタシの居場所であり、一つ一つの道具を正しく用いつつ・みずから開いているセカイを暮らしやすく整える(片付ける)ことこそ、セカイを見るための最も確かな方法なのです。

 さて、空海の言う住心とは「心の優劣(高低)の段階」に他なりません。空海は『十住心論』において、最も低い心の段階から最も高い心の段階に至る道程を10段階に分け、そのつどの心の段階において見渡されている「世界の姿」(曼荼羅)を描き出していきます。私たちの心の段階が高まれば高まるほど、私たちが見渡している世界も広く・深く・明るくなります。住心とは、みずからが見渡している世界(全体)の中に「住んでいる心」を指します。「住む」は、暮らす、親しむ、なじむ、なごむ、などを意味し、おびやかされることなく・くつろいで・時を過ごしている有り様を言います。しかし日頃の私たちは、自分がその中に住んでいる世界に気づいていません。私たちは、自分が用いている様々な個々の物にだけ眼差しを向けているからです。世界を見るには、日頃の眼差しとは異なる「別の眼差し」を開かねばなりません。世界とは、万物を超えた存在に他ならず、世界を見る眼差しは「存在への眼差し」です。『十住心論』において描き出されている10種の世界の姿(曼荼羅)は、もっとも低い心の段階に置かれている人には見えていない存在(秘密)です。私たちは、心の段階を高めていくごとに「前段階の世界」が見えるようになりますが、「現段階の世界」は常に見えないままです。これは、家の中にいる人が見ているのは「住んでいる家」ではなく「家の中に置かれている様々な物」であることとよく似ています。私たちは、家の外に出て初めて「かつて住んでいた家の姿」を目の当たりにします。これと同じように、私たちは「そのつどの世界」の外に脱け出すことによって「より高い世界」に入り込みつつ、それまで住んでいた「より低い世界」が見えるようになります。心を最高の段階に向けて一段ずつ高めていく方法を語りあらわすことを「弁証法」(問答法、対話法)と呼びます。空海の『十住心論』は、住心を「秘密荘厳住心」に向けて一段ずつ高めていくことによって・より高い「世界の姿」(曼荼羅)をアラワにしていく方法を語りあらわす「世界の弁証法」なのです。

 辞書によれば、曼荼羅はサンスクリット語のマンダラの音訳で「まるいもの」や「本質を所有するもの」などを意味します。本質とは存在に他ならず、空海は存在を真言として捉えました。つまり、曼荼羅は真言の集まりなのです。真言は「あるがままに現われている存在の響き」を、曼荼羅は「真言として響きわたっている・あるがままの世界の姿」を指します。秘密・曼荼羅・十・住心・論は、10段に分かたれた心の段階を一段づつ登っていくことを通して、深く隠された10種の世界の姿をありのままに語りあらわす論書を意味します。存在(秘密)に他ならない世界の姿(曼荼羅)をありのままに語りあらわせるのは、真言だけです。真言は字母(音素)としてアラワになりますが、様々な字母の集まりを「文字」(話)と呼びます。したがって、曼荼羅は「世界の話」としてアラワになります。『秘密曼荼羅十住心論』は、深く隠された10種の曼荼羅をアラワにする「曼荼羅の現象学」であり、心の有り様を10段階に分けて明らかにする「住心の分析論」であり、10個の世界の高低(優劣)を語りあらわす「世界の弁証法」なのです。

 ところが、日頃の私たちは世界に気づいていないだけでなく、個々の物の存在に気づこうとすらしていません。そもそも「日頃の」は「存在に気づこうとしない」を意味しますが、存在に気づくことは、日頃の行ないを大幅にさまたげます。なぜなら、私たちは「すべては物である」と思い込んでいるがゆえに・落ち着いて物(道具)に集中し続けることができるからです。それゆえ存在に気づいてしまった人は、常に存在に集中することを強いられながら道具を用いることになり、日頃の行ないが大幅にとどこおってしまいます。存在に集中することを、サンスクリット語でヨーガ(瑜伽)と呼びます。ヨーガとは「物ではない何か」(無)すなわち存在と向き合いつつ、あからさまに存在を捉えようとすることを言います。ちなみに、いわゆるヨガは、落ち着きを得ようとする行ないの一つであり、存在への集中としてのヨーガとは異なります。落ち着きは、道具をたくみに用いるための気持ちであり、ヨーガに取り組むには、むしろ落ち着きを手放してしまわねばなりません。私たちは、苦しんで存在と向き合うのであり、存在との向き合いに苦しむことがヨーガなのです。したがって心の段階は、そのつどの段階において私たちが持ちこたえている苦しみの深さ(重さ)によって測られます。心の段階を高めていくには、苦しみを深めていかねばならず、苦しみを深めるには、それまで気づいていなかった「より深く隠された存在」に気づかねばなりません。最低の段階は、まったく存在に苦しめられていない心であり、最高の段階は、最高の存在と1つになって「死んでいる心」です。ヨーガは、瞑想、観想、坐禅、精神統一などの熟語と結び付けられ、いつの間にか「落ち着いて・心穏やかに世界を見渡すこと」(ヨガ)を意味するようになりましたが、存在に集中するためには、むしろ落ち着きを手放してしまわねばなりません。釈迦や昔の日本のお坊さんたちがヨーガに励んだのは、苦しみつつ・生きながら・死ぬためだったのであり、落ち着き払って快適に暮らしたり健康になるためではありません。

 空海は、最高の存在を大日如来と呼び、大日如来と1つになろうとしてヨーガを深めていく方法を三摩地の法と呼びました。三摩地は、サンスクリット語のサマーディの音写の一つで「三昧」(ざんまい)とも書かれます。また、サマーディの意訳語「定」は、心を1つの対象に集めることを意味し、ヨーガに極めて近い意味を持つ仏教用語です。仏道において、あえて心を1つに集める修行に励まねばならないのは、日頃の私たちの心が多くの物に向かって「分散」しているからです。とは言えミンナも、熱心に仕事に励んでいる限り、或る種のヨーガに入り込んでいます。日頃のヨーガとは、仕事場への集中に他なりません。日頃の私たちにとっての世界とは「仕事場」に他ならず、1つの仕事をより良く成しとげようと励んでいる人は、世界(存在)に集中して(ヨーガして)います。様々な道具を正しく用い合わせて・常により良い作品を作り出そうとしている人を「職人」と呼びます。私たちは、職人のヨーガ(仕事場への集中)を足がかりとして・より深いヨーガに入り込んでいくことができるのであり、道具を正しく用いることを飛ばして仏道(一般存在論)に入ることはできません。個々の道具への集中に始まり、作品への集中を超えて・仕事場への集中に至り、さらに仕事場をワタシの世界として捉えることによって、私たちは日頃のワタシ(ミンナ)を超えた・本来のワタシに目覚めます。本来の私とは、ワタシがなすべき仕事(天職)に目覚めたワタシを言います。天職は、みずから開いたワタシの世界においてのみ成しとげられるのであり、あえてワタシの世界を開くには、あえてヨーガ(苦しみ)を深めていかねばなりません。

 しかしワタシの世界は最高の世界ではありません。ワタシの世界を超えた最高の世界は、万人の世界ではなく・心を超えた存在(最高の存在)です。最高の世界は、最高の人格者が見渡している世界ではなく、最高の存在がそのまま最高の世界なのです。最高の存在は、みずからの内に「すべて」をあらしめている「ただ1つの世界」です。最高の世界としての大日如来は、みずからの姿を「法曼荼羅」としてアラワにし、法は真言として響き渡っています。大日如来とは、あらゆる真言が響き合わさって1つになっている「大真言」に他ならず、あらゆる物、あらゆる生き物、あらゆる人間、あらゆる菩薩、あらゆる仏のあるがままの姿を照らし出す「光」(真理=法)なのです。心が大日如来と1つになる最高の住心においては、心は限られたトコロではなくなり、ミンナは、ただ1つのトコロの光に包まれつつ・居なくなります。最高のヨーガとは、苦しみを深めることによってミンナを死に至らしめる「死への集中」なのであり、死は最高の存在と1つになる最高の瞬間なのです。

 これから私たちは、空海の主著『秘密曼陀羅十住心論』を世界の弁証法として読み解いていくのですが、最高の住心としての「秘密荘厳住心」は、ただ瞬間においてのみ開かれるということをあらかじめ頭に叩き込んでおかねばなりません。私たちは、第十住心にたどり着くことによって、それまでに乗り越えてきた9つの段階を見下ろしつつ「始まり」に投げ返され、あらためて「同じ道」を登っていくことを強いられていることに気づきます。しかし、この繰り返しは「同じ過ちを繰り返すこと」ではなく「より良く繰り返すこと」を、「より良く」は「より良く語りあらわせるように」を意味します。人間は、存在を捉えて語りあらわすことを強いられている存在(心)です。『十住心論』における心の10の段階とは、心が捉えている存在(世界)の段階に他ならず、みずからが見渡している世界をより良く語りあらわせるようになろうとすることこそ人間の使命なのです。では、空海がどのようにして・みずからの使命(秘密曼荼羅教=真言密教=一般存在論)を果たそうとしたのかを見ていきましょう。

17-2 『十住心論』第1部「外道」〈助走路〉


 『十住心論』は10巻に分かれ、各巻一つずつの住心が取り上げられ、各々の住心によって見渡されている「世界の有り様」(曼荼羅)が描かれていきます。まず全体を3つの「部」に分かち、各巻のタイトルと、それぞれの住心を導く教えや宗派の名前を書き並べてみましょう。第1部の外道は「仏教以外の教え」を意味し、仏教より劣った教えです。第2部の仏教は、小乗仏教と大乗仏教に分かれ、さらに小乗は2つの段階に、大乗は4つの段階に分かれます。第3部の密教は、大乗仏教を超えた「最も優れた教え」です。私たちは、外道の3つの段階を仏教に飛び込むための「助走路」として、仏教の6つの段階を密教に至るまでの「中継所」として、密教の段階を「到達点」(最高の段階)として明らかにしていきます。

『秘密曼荼羅十住心論』全10巻
第1部 外道〈助走路〉
① 第一巻「異生羝羊住心」── 誤まった外道
② 第二巻「愚童持斎住心」── 古代中国思想
③ 第三巻「嬰童無畏住心」── 古代インド思想
第2部 仏教〈中継所〉
④ 第四巻「唯蘊無我住心」── 小乗仏教・声聞乗
⑤ 第五巻「抜業因種住心」── 小乗仏教・縁覚乗
⑥ 第六巻「他縁大乗住心」── 大乗仏教・唯識派
⑦ 第七巻「覚心不生住心」── 大乗仏教・中観派
⑧ 第八巻「一道無為住心」── 大乗仏教・天台宗
⑨ 第九巻「極無自性住心」── 大乗仏教・華厳宗
第3部 密教〈到達点〉
⑩ 第十巻「秘密荘厳住心」── 真言密教・真言宗

 空海全集(筑摩書房)の『十住心論』の各巻のページ数(訳注を除く)は、①107(序文を含む)、②85、③66、④48、⑤28、⑥97、⑦40、⑧27、⑨58、⑩36、計592ページとなっています。第一巻の分量が最も多いのは、衆生(生きとし生けるもの)のほとんどが第一住心の段階に置かれているからです。「十住心」を一つの山にたとえると、第一住心は「ふもと」(山の周辺の広大な平地)に、第十住心は「山頂」にあたりますが、個々の住心もいくつかの段階に分かれています。私たちは、個々の住心の最高地点を明らかにしつつ、それらをつなぎ合わせて「山の稜線」を描き出し、アジアの仏教界に・ひときわ高くそびえ立つ『秘密曼荼羅十住心論』の全体像が見えるようにしていきましょう。ちなみに、空海の著作に限らず、一冊の本の頂点を見極めることは、本を正しく読み解く最高の方法です。他人が書いた本を読むことの目的は、著者が極めた頂点にみずから立つことだからです。裏返せば、どこにも頂点(真理)がない本は、読むに値しない本です。

(:残念ながら、書店の棚を埋め尽くしている書物のほとんどは、平地をはいずり回っている人たちが作り出した「真理が見当たらない本」(駄本)です。本の中に真理を求める人は、真本と駄本の違いが分かるようになるまで・なるべく本を読まないように心がけつつ、どうしても読みたくなったら東西の「古典」を読むことをお勧めします。眠くもないのに眠ろうとしたり、空腹でもないのに食べようとしたりしても一向にラチがあかないのと同じように、「何がなんでも読みたい」と思ってもいないのに本を読もうとするからこそ、人はスラスラ読めてしまう駄本に手を出してしまうのです。もしも、乗っていた船が難破して無人島に一人で流れつき、しかも所持品が『十住心論』一冊だったとしたら、誰であれ3年を待たずして・そこに説かれている真理を見極めるに違いありません。つまり、仏典や哲学書を読み解くために必要なのは「知識」ではなく「覚悟」なのです。)

 私たちは、これから『十住心論』を一巻ずつ順番に読み解いていくのですが、空海の文章からの引用や仏教用語の解説などは必要最小限にとどめ、各住心の優劣を決める「条件」を浮き彫りにすることに力を注ぎましょう。そもそも『十住心論』の内容は、すでに取り上げた『二教論』『成仏義』『実相義』の3作ほど難しくありません。『十住心論』は、淳和天皇に捧げられた作品であり、天皇の側近をはじめとする多くの俗人の目に触れる前提のもとに仕上げられた著作だからです。『十住心論』は、俗人に仏教用語の正しい知識を授ける「仏教辞典」であり、かつ凡夫を外道から密教にまで導いていく「仏道のガイドブック」であり、さらに古代インドおよび古代中国に始まり日本独自の思想(真言宗)に至る「アジア思想史」なのです。空海は、各住心が従っている教えを詳しく・ていねいに紹介しつつ、それぞれの住心が置かれている世界の姿を鮮やかに描き出していきます。

【第一巻:異生羝羊住心】異生羝羊(いしょうていよう)の「異生」は凡夫の別名で、「羝羊」は、食欲と性欲に駆り立てられて生きている「雄の羊」を指します。したがって「異生羝羊」は「欲に染まった凡夫」を意味します。第一住心は、いかなる教えにも従わない段階(三悪道)に始まり、様々な「誤まった教え」に従うに至る段階です。第一住心と第十住心を除く8つの住心の各々の教えは、各段階の心を次の段階に向けて高めていきますが、第一住心に置かれている人は、あえて「自分の心を高めよう」とすることはできません。なぜなら、この段階にいる人は自分が最も劣った段階にとどまっていることに気づいていないからです。何らかの教えに従って心を高めていこうとするには、真っ先に人間の「要所」(存在)が心であることを知らねばなりません。私たちは、心に気づくことによって・初めて「心を高めよう」とすることができるようになるのですが、異生羝羊心は『これすなわち凡夫善悪を知らざるの迷心、愚者因果を信ぜざるの妄執なり。』(16原)

 空海は、第一住心の世界を「器界」(自然界)と呼んでいます。自然界に住む衆生は、地獄趣、餓鬼趣、畜生趣、阿修羅、人趣の「五趣」に分かれています。「趣」は、住心を「類」とした場合の「種」にあたります。人趣は、五趣の頂点に立っていますが、第一住心に置かれている人間が説く教え(最低の外道)は、ことごとく誤まっています。空海は、第一巻の最後で異生羝羊住心の段階に置かれた様々な外道の教えを取り上げ、それらの誤まちを正していきます。彼らが誤まってしまうのは、「我」の本質を捉え損なっているからです。「我の本質」とは心に他ならず、「実のごとく自心を知る」(ありのままに自分の心を捉える)ことこそ、密教の目的(即身成仏)なのです。そこに向かう道は、第二住心に至って初めて開かれます。

【第二巻:愚童持斎住心】愚童持斎(ぐどうじさい)の「愚童」は文字通り「愚かな児童」を、「持斎」は「節食」(食事の量を減らすこと)を意味します。食欲に打ち勝って・食物をむさぼることを止めることは、『これ初めの種子の善業の発生するなり。』(129原)第二住心は、山頂(第十住心)に向けて心を高めていく「登山道」の入り口です。愚童持斎住心に置かれている人は、いまだ凡夫に過ぎませんが、正しい教えに従って・より正しい行ないを心がけるようになっていきます。このように、邪心(第一住心)を善心に変えるには、真っ先に「節食」に目覚めねばなりませんが、空海は『持斎の心は必ず三帰を求めて修す』(135原)と語っています。三帰とは、仏・法・僧の「三宝」に帰依することを言います。『仏教用語としての「帰依」とは「拠り所にする」という意味。一般的に仏教に帰依する際には「三帰五戒」とされ、仏・法・僧を拠り所にすることを宣言し(三帰依)、五戒とよばれる戒律と、可能であれば更に「八斎戒」を授かることになる。宗教的には仏教以外の教えを信じることをやめ、五戒を守ることを誓ってはじめて正式な仏教徒となるのである。』(ウィキペディア「帰依」より)しかし第二住心は、まだ仏教に従う段階ではありません。第一住心を第二住心に引き上げつつ第三住心に向けて高めていく教えは古代中国の思想「儒教」です。私たちは、第四住心に至って初めて、あからさまに仏の教えに従うようになるのですが、空海は第1部において、儒教や道教やヒンドゥー教などの外道を「悪道」としてではなく「仏道に至る正しい道」として明らかにしようとしています。つまり正しい外道は、仏道に飛び込むための「助走路」なのです。

 「凡夫」にあたる儒教用語は「小人」(徳の低い人)です。儒教は、仁・義・礼・智・信の「五常」を説き聞かせることによって、小人を「君子」(最も徳の高い人)に導いていく教えです。君子は、儒教における最高の人間なのですが、君子ですら「王」には従わねばなりません。空海は第二巻において、最も低い段階の王、すなわち「不正治の国王」から、最高の王としての「天輪聖王」に至る「王道」を明らかにしています。これは、第二住心が置かれている世界が「王国」(国)だからです。儒教とは、五常を説き聞かせることによって・あらゆる国民の心を1つに束ね・国を守り治めていくための教えに他なりません。空海は、様々な国王の姿を描き出すことによって「国としての世界」の姿を描き出していきます。不正治の国王とは、国を不正に治める最低の王ですが、ここに言う不正は「間違った」ではなく「悪」を意味します。「悪治の王」によって統べられている国は、『衰損を受く‥‥国人みな破壊する‥‥国土飢饉にあう‥‥その国まさに破亡すべし』(158~159原)いっぽう「正治の王」が統べる国は『上下和睦にして‥‥諸天歓喜し‥‥五穀成じ‥‥災難起こらずして国土楽しむ』(159原)このあと空海は、正治の王を超えた「輪王」や、輪王を超えた「転輪聖王」について語っています。国王は「一つの国」を統べていますが、転輪聖王が統べているのは「万国」(世間)です。世間の王としての転輪聖王は、第二住心の頂点に立つ「最高の人趣」です。

【第三巻:嬰童無畏住心】嬰童無畏(ようどうむい)の嬰童は「幼い子供」を、無畏は「恐れがないこと」を意味します。第三巻の注一には、『あたかも幼児が母親の懐に抱かれたり、子牛が母牛にしたがっているときのように、天界に生まれることを願って現世で宗教的実践にいそしむ者が、いっときの安らぎを得るあり方。第二住心の道徳・倫理の世界より、さらに進んで宗教的に目覚めた世界を明らかにする。インドのバラモン教の哲学学派における生天説や三界の諸天が紹介される。』とあります。第二住心では、五常に従って正しい行ないに励むことによって君子になろうとする教え(儒教)が取り上げられましたが、第三住心は『戒を護りて天に生ずる』(223原)ことを願う段階です。「五戒」は儒教の「五常」にあたる仏教用語なのですが、五常が「常に〇〇せよ」という「すすめ」(奨励項目)の集まりなのに対し、五戒は「決して〇〇するな」という「いましめ」(禁止事項)の集まりです。私たちは、あらゆる悪行を手放すことによって、おのずと善行を重ねることになるのですが、善行の「報い」には、現世での「ご利益」(安楽な暮らし)だけでなく、来世に「天界」に生まれ変わることも含まれます。嬰童無畏心は『世間における最上の心』(225訳)であり、第三住心が見渡している世界は「天界」です。

 しかし、天界に生まれ変わるための教えも外道にとどまり、人間を仏道に入らせることはできません。第三住心に至った人は、正しい行ないを原因とする結果(天界への生まれ変わり)を瞑想することにより、仏教の根本教義の一つ「因果」(因縁)に目覚めますが、この瞑想は「世間の三昧道」(世間の人々の瞑想の実践)に過ぎません。三昧(瞑想)は、仏教における最も重要な修行であり、心を高めていく最も確かな方法です。しかし世間の三昧は、人間を仏にする瞑想(ヨーガ)ではなく、天界に生まれ変わるための瞑想です。空海は、嬰童無畏心を導く教えを16の段階(十六外道)に分けて紹介した後、世間の瞑想の4つの段階を明らかにし、さらに三界(欲界・色界・無色界)に含まれる様々な天界を紹介し、最後に第三住心を導く教えを「天乗」(天の教え)と呼びつつ、天乗の密意(隠された意味)を真言によって語りあらわして第三巻を締めくくります。『天・人・餓鬼・畜生などの教えは、じつはみな密教である。だから『大日経疏』に「我は、すなわち天・龍・餓鬼などである」と言うのである。言うところの「我」とは大日如来に他ならない。』(282訳)最低の段階(外道)があるからこそ最高の段階(密教)が成り立つのであり、逆もまた然りです。世界には、おのずから底辺と頂点が備わり、あらゆる衆生は、みずからの我(心)を我の頂点(大日如来)に向けて高めていくように定められているのです。そして、天界を超えた世界に向けて心を高めていく教えが・仏教の始まりとしての「声聞乗」なのです。

 以上が第1部「外道」のあらすじなのですが、先に述べたように外道は仏道に飛び込むための「助走路」です。外道の世界の底辺は「地獄界」であり、頂点は最高の天界、すなわち「有頂天」(非想非非想処)です。私たち人間は、とてつもなく長い時を経て地獄界から這い上がり、やっとのことで人界にたどりついたばかりなのであり、さらなる高みに登っていくには、あらゆる悪行を手放しつつ・善行に励まねばなりません。しかし天界を目指している限り、私たちは仏道に入ることはできません。有頂天は、外道の頂点に過ぎず、天界も「世間」だからです。仏道とは「解脱道」(世間の外に脱け出す道)に他なりません。世間とは、生成消滅を繰り返す物が1つに集まっているトコロを指します。天界に住まう天人といえど、人界から這い上がってきた「生成した者」に過ぎず、いずれ下落していきます。地獄界から天界までの6種の世界を行き来する(昇降する)ことを「六道輪廻」と呼びます。仏道に飛び込むことは、六道(世間)から脱け出すこと、すなわち「出家」です。出家の「家」は、自分が生まれ育った家や世間を意味するだけでなく、『法華経』に説かれる7つのたとえ話の一つ「三車火宅」の「火宅」をも指しています。最後にウィキペディアの「法華七喩」の項から「三車火宅」の段を引用して17-2を締めくくりつつ、第2部「仏教」に話をつなぎましょう。『ある時、長者の邸宅が火事になった。中にいた子供たちは遊びに夢中で火事に気づかず、長者が説得しても外に出ようとしなかった。そこで長者は、子供たちが欲しがっていた「羊の車と鹿の車と牛車の三車が門の外にある」と言って子供たちを家の外に連れ出し、その後さらに立派な「大白牛車」を与えた。この物語の長者は仏、火宅は苦しみの多い三界、子供たちは三界に住む一切の衆生、羊車・鹿車・牛車の「三車」は、声聞・縁覚・菩薩(三乗)のために説いた方便の教えを指し、それら人々の機根(仏の教えを理解する素質や能力)を三乗の方便教で調整し、その後に大白牛車である「一乗の教え」を与えることを表わしている。』

17-3 『十住心論』第2部 「仏教」〈中継所〉


 仏道とは、世間(六道輪廻の世界)からの解脱道に他ならず、世間の外としての「涅槃」(ねはん)こそ、仏教における最高の世界です。涅槃とは、『仏教では究極的目標である永遠の平和、最高の喜び、安楽の世界を意味する。本来は風が炎を吹消すことを意味し、自己中心的な欲望である煩悩や執着の炎を滅した状態をさす。このような状態は「涅槃寂静」と呼ばれて初期仏教の根本的教えの一つであったが、人が生命または肉体をもつかぎり完全な涅槃の状態は達成されないとして、これを「有余涅槃」とし、死後に実現される完全な状態を「無余涅槃」と呼び、釈尊の死を「涅槃に入る」というようになった。またジャイナ教では、仏教と同様に永遠の安楽な世界、ベーダーンタ哲学ではブラフマンとの合一を意味する。』(『ブリタニカ国際大百科事典・小項目事典』より)── しかし涅槃は、私たちが住む(滞在する)ことができるような世界ではありません。世間の外としての涅槃では、私たちは指一本動かすことはできないからです。身体を含む様々な道具を用いて何かをしている限り、たとえ呼吸しているだけだったとしても、そこは涅槃ではなく世間です。したがって、釈迦ほどの人といえど、涅槃にとどまり続けることはできません。涅槃とは「存在する無」(空)に他ならず、私たちがそこに入り込めるのは瞬間に限られます。その瞬間、私たちは空と1つになりつつ・我(心)を手放しつつ「すべては空である」(一切皆空)を思い知らされます。空海は「存在する無」を大日如来と呼び、大日如来と1つになっている心を「秘密荘厳心」と呼びました。秘密荘厳住心(第十住心)は、真言密教の到達点であり、第四住心から第九住心までの6つの住心は、第十住心に至るための「中継所」に過ぎません。第十住心は、瞬間においてのみ開かれている最高の世界(世間の外=涅槃=空=大日如来)を見渡す・最高の心の段階です。このように、涅槃に至ることが仏教の目的であり、大日如来と1つになることが密教の目的なのです。つまり仏教も密教も、最高の瞬間に導いていく教えなのです。にもかかわらず、涅槃が「永遠の安楽な世界」とみなされ続けてきたのは、これまで「涅槃は瞬間においてのみ開かれる」ということをハッキリ語りあらわす人が現われなかったからです。それゆえ、仏典を読むだけでは、決して涅槃に至る(最高の瞬間に立ち会う)ことはできません。とは言え私たちは、みずから最高の瞬間に立ち会うことによって、大日如来と1つになりつつ(即身成仏しつつ)密教をよみがえらせようとしているのではなく、密教を超えようとしているのです。私たちは、自分の心を高めていくことによって・安楽な世界に移り住もうとしているのではなく、密教を超えた新たな一般存在論を生み出そうとしているのです。『十住心論』を読み解いていくことは、そのための助走となるでしょう。── 前置きはこれぐらいにして、第2部「仏教」に踏み込んでいきましょう。

 『十住心論』第2部は6巻に分かれ、初めの2巻では小乗仏教が、後の4巻では大乗仏教が取り上げられます。小乗(マヒーナ・ヤーナ)は「小さな乗り物」を、小乗仏教は「修行に励んでいる当人だけが救われる・器の小さい教え」を意味します。このように「大乗より劣った教え」を意味する小乗という呼び名は、大乗仏教が興った後に生まれた「蔑称」であり、阿羅漢を目指してひたすら修行に励んだり、熱心に経典を読み解いて仏教の解説書(アビダルマ)を書いたりしていた人たちの「自称」ではありません。いっぽう大乗(マハー・ヤーナ)は「大きな乗り物」を、大乗仏教は「多くの衆生(他人)を救う・器の大きい教え」を意味します。小乗仏教が自分一人しか救えないのは、悟りの境地を他人に伝えられないような仕方で修行してしまうからです。どれほど巧みに仕事をこなせる人であっても、他者を仕事をこなせる人に育てられるとは限りません。何かを成しとげることと、それを成しとげるための方法(道)を語りあらわすことは、まったく別の仕事だからです。釈迦は、みずから悟りに至っただけでなく、一人一人の弟子の素質や心の段階を見抜きつつ、各々に最もふさしい道(方便)を指し示しつつ、弟子を一歩ずつ悟りに導いていくことができる人でした。仏の説法(声)に聞き従って悟りに至ろうとする人を「声聞」(しょうもん)と呼びます。『十住心論』第四巻では、「声聞乗」に従って阿羅漢になろうとする心の段階が取り上げられます。なお、17-3は、A 小乗仏教、B 大乗仏教(権大乗)、C 大乗仏教(実大乗)の3節に分かれます。

A 小乗仏教


【第四巻:唯蘊無我住心】唯蘊無我(ゆいうんむが)住心とは、『存在を構成する要素(五蘊=色・受・想・行・識)のみ実在(唯蘊)し、個別的存在には実体がない(無我)とする心のありかた。前の住心で到達した純粋に精神的な世界(無色界)も迷いの世界(三界)を出るものではない。この住心から仏教の解脱の道にはいり、まず小乗仏教の修行者の理想である声聞(教えを聞いて悟る者)の心のありかたを示す。』(第四巻・注一)── 声聞とは、『サンスクリット語のシュラーバカ(声を聞く者)の訳語。教えを聞く弟子の意。ジャイナ教でも同じ意味で用いる。仏教では元来、ブッダの教えを聞いて修行する出家・在家の仏弟子を意味したが、後代になると教団を構成する出家修行者のみをさすようになった。大乗仏教では、声聞乗(声聞のための教え)を縁覚乗(独覚乗)と並べて二乗と称し、さらに菩薩乗を並べて三乗と呼ぶが、このうち二乗を小乗として貶称し、声聞は仏の教えを聞いて修行しても自己の悟りだけしか考えない人々であると批判した。声聞・縁覚のために説かれた四諦・十二因縁などを説く経典を「声聞蔵」といい、声聞の四つの修行段階(預流・一来・不還・阿羅漢)を「声聞四果」という。』(『日本大百科全書(ニッポニカ)』より)

 さて、空海は第四巻冒頭の「大意」の中で、外道の三昧(瞑想)は『生死に流転して涅槃を得ず』(300原)と述べています。しかし、出家して声聞の位に上り「五蘊だけが実在し、自我の実体はない」(唯蘊無我)とみなせるようになっても、それだけでは「完全に悟った」とは言えません。『悟りに至るまでに、優れた者で三生、劣った者だと六十劫かかる。』(301訳)人間は、極めて長い修行期間を経てようやく悟りに至るのですが、仏教の修行はことごとく「瞑想」(三昧、定、瑜伽)に基づいて行なわれます。それどころか瞑想は、悟りに至る唯一の修行だと言っても過言ではありません。作務、托鉢、坐禅、写経、読経、陀羅尼(真言を唱える)、護摩(供物を燃やして祈願する)、安居(寺にこもって外出しない)などの様々な修行は、瞑想を深めるための手段(導入部)に過ぎないからです。仏教における修行とは、瞑想に励むことに他ならず、ひたすら「世間の外」(涅槃)に向かって心を集めることが仏道(解脱道)なのです。

 空海は、声聞についての概要を述べ終わった後、小乗仏教の20の部派(大衆部七部、上座部十一部、根本二部)を挙げ、次に『倶舎論』(説一切有部)の五位七十五法(あらゆる「存在」を5つのカテゴリーに分け、それらを75個に細分した教え)を紹介し、さらに声聞の修行の段階を 順解脱分位、順決択分位、見道位、修道位、無学位の5つに分けて細かく解説していきますが、ここではこれらの用語の解説は控えます。第四巻の中に出てくる仏教用語の中で最も重要なのは、声聞、涅槃(有余涅槃と無余涅槃)、三昧、五蘊、無我、無学位、阿羅漢の7つです。声聞とは、仏の教えに聞き従って涅槃を目指し、三昧に励んで唯薀無我を見極め、何一つ学ぶことが残っていない最高の境地である阿羅漢になろうとする人を指します。声聞の目的は、自分が阿羅漢になることであり、阿羅漢への道を語りあらわすことではありません。阿羅漢は、仏の教えに聞き従ったからこそ「無学位」(小乗仏教の最高の境地)にまで登り詰めることができたのですが、じつは阿羅漢にも学ぶべきことが残っています。それは「他人を最高の境地に導く方法」です。声聞乗が「小乗」と呼ばれてしまうのは、自分一人だけ悟りつつ・他人には悟り方を教えないからではなく、声聞には他人を悟らせる方法を語りあらわすことはできないからです。声聞は、釈迦が用意してくれた「悟りへのハシゴ」を上って阿羅漢に至ろうとするのですが、どれほど巧みにハシゴを上ることができるようになっても、ハシゴを作り出せるようにはなりません。小乗は「劣った教え」ではなく、小乗には他人に伝える教えがないだけなのです。声聞乗は、「声聞が語る教え」ではなく「釈迦が声聞に向かって語った教え」なのです。『声聞乗は、そのままで衆生を悟りに導く仏の教えなのであり、両者は別々でなく一体である。』(347訳)── 第四巻では、釈迦の教えを学んで「唯薀無我」に目覚める「声聞乗」が取り上げられましたが、第五巻では、みずから(独りで)「抜業因種」に目覚める「縁覚乗」(独覚乗)が取り上げられます。

【第五巻:抜業因種住心】抜業因種(ばつごういんじゅ)住心とは、『人間存在を成り立たせている12の条件(十二因縁)の原因である根源的な無知(無明)を取り除く心のありかた。前の住心で到達した「個別的存在には実体がない」とする世界から、さらに根源的な無知を滅することを修行者の理想とする縁覚(教えによらず、みずから悟った者)の心のありかたを示す。』(第五巻・注一)── 第五住心は、縁覚(えんがく)の段階に置かれた住心です。縁覚は、声聞より優れていますが、いまだ小乗の段階にとどまっています。小乗とは、他人を悟らせることができない教えを指します。

 声聞の教えは、釈迦の教えですが、縁覚は誰からも教えられることなく「十二因縁」を見極め、悪業・煩悩の「因種」(原因)である無明を心から抜き取ります。しかし縁覚は、『三昧を無言に証する』(360原)『言語を用いず』(361原)『無意味な議論を避ける』(366訳)『正しい教えを説いて生けるものを利益することを願わず、雑事の少ない寂静に住まうことを深く願い求める』(368訳)『正しい行ないを見せることによって他人を救うが、言葉で説法することはない』(372訳)『本性上ひたすら涅槃に向かうことだけを願う』(372訳)── 空海は、第五巻の結びにおいて、縁覚乗の隠された意味は真言の「バ字」に収め尽くされていると語り、バ字を「一切諸法無言説」(あらゆる存在は、言語表現を絶している)と訳しています。声聞と縁覚は、自分が「語りあらわせない世界」(世間の外)に立っているとみなしているがゆえに「無言」なのです。

 世間を超えた世界は、世間にとどまっている人たちにとっては「たんなる無」(どこにもないトコロ)に過ぎません。世間の言葉とは物を語りあらわす言葉に他ならず、無を語りあらわすには「別の言葉」を用いねばなりませんが、それが真言なのです。仏教においては、悟りの境地(涅槃)は語りあらわせないとみなされていますが、真言密教においては、悟りの境地(大日如来)は、みずからを真言として語りあらわしているとされています。いかなる教えも、それを誰かに語り伝えようとする限り、言葉を中立ち(媒介)にしなければ成り立ちません。悟りの境地が語りあらわせないとみなされてしまうのは、多くの人は、言葉(物)によって無を語りあらわすことはできないと思い込んでいるからです。しかし、空海は『声字実相義』の中で「言葉(声字)は一つ残らず真言である」と語っています。私たちは、常に無(存在)を語りあらわしているのであり、最高の世界としての涅槃を語りあらわすことは可能なのです。仏教は、小乗であれ大乗であれ、最高の世界を語りあらわせない教え(顕教)であり、密教はそれができる教えです。空海は『十住心論』において、外道の3つの段階から小乗仏教の2つの段階を経て、さらに大乗仏教の4つの段階を歩み抜くことによって、読者を最高の段階に導いていきます。最高の段階とは、最高の世界を語りあらわせるようになる段階なのです。

 ちなみに、第五巻は『十住心論』全十巻の中で2番目にページ数が少ない巻(28P)です。これは、第五巻が第四巻の「続編」に過ぎないからです。小乗仏教は、釈迦の教え(仏乗)を小さくした教えなのであり、それをさらに細かく分けた教えが声聞乗と縁覚乗なのです。そして大乗仏教が大きい教えなのは、大乗は、声聞乗と縁覚乗を超えて、仏教の源流である釈迦の教え(仏乗)に戻ろうとする「菩薩乗」だからです。声聞乗・縁覚乗・菩薩乗は「三乗」(3つの教え)と呼ばれていますが、声聞乗と縁覚乗は、大道(菩薩乗)につながる小路(小乗)なのです。ちなみに、声聞・縁覚・菩薩の三乗は、それぞれ、先に引用した「三車火宅」の羊車・鹿車・牛車の三車に当たり、大白牛車は、第八巻で取り上げられる「法華一乗」を指します。(一乗=唯一の教え)

B 大乗仏教(権大乗)


 第一住心から第三住心までが「外道グループ」、第四住心と第五住心が「小乗セット」だったように、第六住心と第七住心は「権大乗コンビ」です。権大乗とは、『「仮に説いた大乗」の意。素質、能力において劣っている人を真実の大乗の教え(実大乗)に導くための方便として、相手の理解能力に応じて説いた教え。天台・華厳等では法相・三論等を権大乗とする。』(『精選版 日本国語大辞典』より)── 第六住心は、大乗仏教の4つの段階の「初段」であり、第八巻と九巻で紹介される「実大乗」に至るための2つの中継所の一番目です。ちなみに、第六巻は第一巻の次にページ数が多い巻(97P)です。これは、第六住心が大乗仏教の始まり(初門)だからだけでなく、第六住心を導く「唯識派」(法相宗)の教義が、極めて優れた教えだからです。唯識派の祖師「世親」と中観派の祖師「龍樹」の2人は、釈迦の後に現われた僧の中で最も優れた論者であり、世親の主著『唯識三十頌』は、龍樹の主著『中論』に勝るとも劣らない、大乗仏典の最高峰の一つです。なお、第六巻では唯識派の教えが、第七巻では中観派の教えが詳しく取り上げられますが、どちらも「菩薩乗」に含まれます。

【第六巻:他縁大乗住心】『他縁大乗(たえんだいじょう)住心:他縁は他なる人びとを対象とすることで、いかなる相手たるを問わず、無条件で、平等にはたらく慈悲をもって大乗仏教の立場とする心のありかた。第四住心の声聞乗や第五住心の縁覚乗は小乗仏教で、特に第五住心がおのれ一人のさとりを目ざすのに対して、とらわれなき慈悲のはたらきをもってすべてのものを教え導き、救済するところに、第六住心の特色が認められる。大乗の初門の住心で、法相宗をこれにあてる。』(第五巻・注一)── 法相宗とは、『インド瑜伽行派(唯識派)の思想を継承する中国の唐時代創始の大乗仏教宗派の一つ。645年、中インドから玄奘三蔵が帰国し唯識説が伝えられることになる。その玄奘の弟子の慈恩大師・基(窺基)が開いた宗派である。唯識宗・慈恩宗・中道宗とも呼ばれる。705年に華厳宗が隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰えた。日本仏教における法相宗は、玄奘に師事した道昭が法興寺で広め、南都六宗の一つとして8世紀から9世紀にかけて隆盛を極めた。有名な寺院としては、薬師寺・興福寺などがある。』(ウィキペディア「法相宗」より)── 瑜伽行派(ゆがぎょうは)とは『大乗仏教の学派のひとつで、「唯識」の教学を唱導した学派である。唯識瑜伽行派、唯識派とも言う。ヨーガ(瑜伽)の実践の中に唯識の体験を得て教理にまとめた。‥‥とりあえず心(識)だけは仮に存在するとみなし、深層意識の阿頼耶識が「自分の意識」も「外界にあると認識される物」も生み出していると捉え(唯識無境)、最終的には阿羅耶識もまた空であるとする(境識倶泯)。‥‥弥勒を祖とし、無着・世親が教学を大成した。‥‥瑜伽行派は、インド大乗仏教史上、「空」を説く「中観派」とともに二大思潮を形成したが、6~7世紀頃から中観派との間によく論争が行われるようになり、一方で教学上の統合の動きもあった。』(ウィキペディア「瑜伽行唯識学派」より)

 さて、第六住心を導く教えは「菩薩乗」ですが、空海はそれを「他縁乗」とも呼んでいます。『この全世界の生きとし生けるものを縁とするから「他縁」という。羊がひく車や鹿がひく車に喩えられる声聞・縁覚の小さい乗り物とは違うから「大」の名がある。自分も他人も完全な真実に至らしめるから「乗」という。これは実にすぐれた人のふるまい行なうところであり、菩薩の心を用いる方法である。これは法相宗の大綱である。』(396訳)

 第六巻は、①大意と摂教、②法相宗の修行の5つの段階、③法相宗の理論の大綱、④真言の密意、の4節に分かれ、各節のページ数は、①5、②69、③20、④3となっています。②の分量が最も多いのは、法相宗の修行の段階が詳しく紹介されているからです。唯識派の教えに従う法相宗の修行とは「瑜伽行」(ヨーガの実践)に他なりません。私たちは、これまで何度もヨーガについて語ってきましたが、ヨーガに親しむことは・そのまま仏教に親しむことにつながります。釈迦が教えようとしたことは、ヨーガを深めて空を捉える方法に他ならないからです。唯識派(瑜伽行唯識学派)が教えるヨーガは、みずからの心の有り様を「あるがままに」捉えるヨーガです。つまり、自分の心に思いを集めることが「瑜伽行」なのです。

 心とは、私たち人間がそこにおいて存在を捉えているトコロ(存在)です。仏教においては、心の働きは「受・想・行・識」の4つに捉え分けられていますが、受・想・行の3つは色(物)を捉える心の働きを、識は空(存在)を捉える心の働きを指します。そして唯識派は識を、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の8つに捉え分けます。眼識から意識までを「前六識」と呼びますが、末那識は、前六識が捉えている6種の存在を1つに噛み合わせて「対象」(ワタシに向かい合って立っている存在)にする働きです。阿頼耶識は、常に末那識を含む七識と対象をともに包み込んで見渡している最深の識であり、すべてを照らし出す最高の存在です。ところが末那識は、阿頼耶識をも対象として捉えようとしてしまうため、日頃の私たちは、心の働きとしての識を、ワタシと呼ばれる実体(物)とみなしてしまっています。だからこそ瑜伽行派は、ヨーガを阿頼耶識に向けて深めていくことによって「我執」(ワタシを実体化する意識)を手放していく方法を教えようとするのです。

 唯識派は、菩薩の修行の段階を、資糧位・加行位・通達位・修習位・究竟位の5つ(五位)に分けますが、4番目の「修習位」(十地の別名)の解説こそ、第六巻の「要所」です。十地とは、52段に分かれる菩薩の修行段階の内の41~50番目を指します。ヨーガを深めて十地の最上位「法雲位」に上れば、成仏(悟り)まで残すところ2段階(等覚と妙覚)のみです。法雲は「真理の雨を降らせる雲」を意味し、法雲位に至れば『最高の真理を捉える瞑想を得、仏の行為やあり方と同じである。』(452訳)菩薩が52もの段階を経て悟りに至ろうとするのは、みずから歩んだ道を他人に語り伝えられるようになるためです。私たちは、目的地に向かって闇雲に突っ走ってしまうと、自分がどこを・どのように経て「ここ」にたどり着いたのか語りあらわすことはできず、「気づいたら、ここにいた」と言う他ありません。一歩一歩たどたどしい足取りで、苦労して険しい道を歩み抜いた人だけが、自分が歩んできた道について語れるようになります。菩薩は、あえて最も遠く険しい道を選んで歩む人であり、菩薩道は、みずから仏となって衆生を救おうと志す人が歩む「回り道」なのです。「救う」とは、迷路(六道輪廻)から引きずり出して仏道(菩薩道)に引き込むことを言います。他人を救うには、どうすれば正しい道に入り込めるのかを「言葉で」伝えねばなりませんが、世間で語られている言葉は、物を語りあらわす言葉です。ところが「道」は物ではなく、したがって世間の言葉で菩薩道を明らかにすることはできません。菩薩道は、涅槃への道であり、涅槃は最高の世界、すなわち最高の存在です。仏の言葉は、存在(空)を語りあらわす言葉であり、菩薩道は「空」を語りあらわせるようになるための修行の道であり、唯識派(法相宗)の修行は「ヨーガ」です。ヨーガとは「空への集中」に他ならず、みずからの「識」を「空」に向けて深めていく修行の段階を語りあらわすことが唯識派の教えなのです。唯識派の目的は、最深の識としての阿頼耶識が空と同じ(1つ)であることを語りあらわせるようになることであり、最もあからさまに空を語りあらわした人は、中観派の祖師・龍樹です。第六巻に直結する第七巻で中観派が取り上げられるのは、そのためなのです。

 空海は、法相宗の修行の段階を紹介し終わると、①所観の唯識、②能観の唯識、③二諦(2つの真理)、④四種の体(4種類の教えの本体)、⑤六合釈、以上の法相宗の5つの理論を淡々と紹介していき、最後に「真言の密意」を述べて第六巻を締めくくります。『上に述べてきた他縁乗(他縁大乗心の教え)は、弥勒菩薩の瞑想への入り口である。この瞑想は、大いなる慈しみの瞑想である。』(488訳)弥勒菩薩は、釈迦の次に仏となる資格を得た菩薩で、56億7千万年後に龍華樹の下で大悟し、あらゆる衆生を救うとされる「未来仏」です。空海によれば、弥勒が語る「自心の真言」は「ア」の一字に尽くされます。『ア字とは、本不生(本来生起しないこと)を意味する。生とは、生老病死として現われる「流転の仕組み」である。弥勒は、流転を基づけている「本体」は常に同じであり続けること、すなわち「不生」を意味するア字を語る。諸々の存在は、本性上「不生」であることを知っているからである。‥‥この真言に、ことごとく法相宗の教えを納める。この真言を唱えれば、弥勒菩薩の悟りの境地に入るためのあらゆる教えを保つことになる。すなわち、三劫を経ずして、この人生において成仏することができる。ところが通説では、弥勒菩薩は十地にとどまり、遠い将来に成仏するとされている。このような説は、まだ真実を理解していない人が口にする言葉である』(489~490訳)

【第七巻:覚心不生住心】『覚心不生(かくしんふしょう)住心:心の本性そのものは本来生起することがないもの(不生)であるとさとる心のありかた。それは、あたかも大海の波は条件によって起こるが、水じたいは生起することがないのと同じである。そして、あらゆる実在の観念を否定し、相対矛盾を越えた立場(中道)を明らかにする。この否定を媒介とする空の哲学は三論宗で説くところである。前の住心における根源的な認識のはたらきの存在が否定し去られるのが、この住心の特色をなしている。』(第七巻・注一)── 第七住心を導く教えは「中観派」の教義です。中観派とは、『インド大乗仏教において、瑜伽行派(唯識派)と並ぶ2大学派のひとつ、龍樹(西暦150~250年頃)を祖師とし、その著作『中論』などを基本典籍とする学派。『中論』を根底として般若空観を宣揚した。』(ウィキペディア「中観派」より)──『中論』とは、『大乗仏教のもっとも中心となる書物。・・・龍樹の著した約445の詩(偈頌:27章からなる)であるが、後世付加された注釈の中に含まれ、偈頌だけの原本は未発見。・・・。初期大乗仏教を基礎づけた書物で、それ以降の大乗仏教はすべてその思想を受け継ぎ、そのため龍樹は八宗(仏教の全宗派)の祖と称せられる。その中心思想は「縁起・無自性・空」の3語であらわされる。八つの否定(八不)をもって始まり、なんであれ、独立の実体ないし本質(自性)、および自性をたてようとする考えを、独自の相依による縁起説によって完全に否定し、それを深く体得したところを「空」とし、さらに中道とも説く。仏教の諸テーマはもとより、広く言語・真理・存在・運動・時間・関係性その他にきわめて深い洞察があり、いまは宗教哲学の最高書とされ、また仏教思想を理解するためにかならず読まれる。』(『日本大百科全書(ニッポニカ)』より)

 龍樹は、『中論』の冒頭に「八不」(8つの否定)を掲げました。『不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不来・不去を「八不」という。八不は、すべての存在が相依相待(互いをより所とし合う)の関係にあり、他から独立してそれ自体として存在するものは一つもない、という縁起の道理を説いたものである。さらにこの八不には、真理(諦)に合する「中道」の実践も説かれていると考えて「八不中道」という。中国の三論宗では、八不を破邪、中道を顕正の意味に解する。』(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』の「八不中道」より)── 南都六宗の一つ「三論宗」は、龍樹の著作『中論』と『十二門論』、龍樹の弟子・提婆が書いた『百論』、この3つの論書を根本教典とする宗派です。第六巻で法相宗の教義が詳しく紹介されたように、第七巻では三論宗の教義が取り上げられます。第七巻は、①大意と摂教、②三論宗義の綱要、③三論の要旨、④真言の密意、の4節に分かれ、各節のページ数は、①5、②18、③10、④7(計40)となっています。第七巻が第六巻の半分以下のページ数しかないのは、「中道」を明らかにするための下地が、すでに第六巻によってキッチリ描かれているからです。

 さて、八不は「不生亦不滅」「不断亦不常」「不一亦不異」「不来亦不去」の4つのグループから成り立っています。「亦」は「また」と読み、「不○亦不□」は「○でもなく□でもない」を意味し、○でも□でもない第3の何かを指し示しています。この「何か」が、○と□の「中」なのです。八不の筆頭に掲げられた「不生亦不滅」は、「生成することも消滅することもない」を意味し、生成する物でも消滅する物でもない「存在する無」(空)を指しますが、他の3つの組み合わせも同じく「空」を指し示しています。つまり中は空を意味しているのです。中道とは、空を捉えるための方法を指し、中道を明らかにする『中論』は、空(存在する無)を捉えて語りあらわす「空論」(一般存在論)なのです。あらゆる物は、生じたり・滅したり、途絶えたり・とどまり続けたり、同じだったり・異なったり、やって来たり・立ち去ったりしますが、この4つのグループを「変化」という概念でひとくくりにすることもできます。あらゆる物は変化し続けますが、存在は不変です。個々のリンゴは、リンゴではない物に変わり続けますが、リンゴの存在(何であるか)は常に同じ(1つ)です。『「一」は無数の物の母であり、「空」は現象している物の根本である』(514訳)

 空海は、大意に続く「摂教」(教えの要点)の中で「心主」(心の本体)について語っています。第七住心に至った人は、『無我の立場をも捨てて、心の本体は自由自在であり、決して生起した物ではない(不生である)ことを覚る(さとる)。なぜなら、心は過去にも未来にも見い出せないからである。』(516訳)第七巻のタイトル「覚心不生住心」は、「みずからの心が不生(空)であることに目覚めている心の段階」を指します。『このように、心の本不生を悟れば、ようやく阿字門に入ったことになる。』(518訳)「阿字門」とは、『万有一切の根源を象徴する「阿」字をもって究極絶対的なものとする門戸。』(第七巻「注十二」)唯識派は、ヨーガを深めることによって、最深の識としての阿頼耶識に至りつつ・みずからの心が空と同じ(1つ)であることを知ることを目指します。それゆえ、阿字門に入ることは、唯識派の目的を達成する(完成させる)ことになります。

 続いて空海は、第2節「三論宗義の綱要」において「二諦」(にたい)の意味を明らかにして行きます。「諦」は、あきらめる、あきらか、まこと、などと読みますが、仏教用語としては「断念」ではなく真理、あるいは真理を捉えることを意味します。『中論』に説かれる二諦は、「世諦」(世俗諦、俗諦)と「第一義諦」(勝義諦、真諦)の2つを指します。二諦とは、『仏教思想一般に共通的な2種の真理の考えで、ことばを超えた究極的な最高の真理である勝義諦と、ことばや行動をも含む慣例的、日常的な世俗諦のこと。仏陀のことばとされる経典を究極的なものと導入的なものとに分類する目的もあってこの考えが現れ、大乗仏教ではもっと一般化されて、ものの見方、表現の仕方にもこの考えが及ぼされる。仏教の目ざす究極的な悟り、涅槃にどう関係するかによって区分し、それに直結するのを勝義諦、そうでない手段的なもの、日常的なものを世俗諦とよぶようになる。』(『日本大百科全書(ニッポニカ)』より)── 世俗とは、俗人(凡夫)の世界としての世間を指し、凡夫は「物には実体がある」と思い込んでいます。ところが、第七住心に至った菩薩は「物の本質は空である」と見抜いています。このように凡夫の思い込みは誤まっている(真理ではない)のですが、凡夫にとっては正しい(真理である)と言わねばなりません。それゆえ、この思い込みを『世俗における真理(世俗諦)と呼ぶのである。』(521訳)かたや勝義諦は、「諸法性空」(万物の本質は空である)とする「真諦」(真の真理)です。中道とは、この2つの真理のどちらか一方にとらわれることのない「中立の立場」に他なりません。中道に立つ人は、2つの真理をともに眼差しの内に収めつつ、俗諦から抜け出せない凡夫(外道)と、真諦にこだわり続ける声聞・縁覚(小乗)とを、ともに中道(大乗)に導き入れようとします。

 個々の物の実体を否定しても、それらの物がなくなることはありません。何より私たちは、ほとんど常に身体とともに様々な物を用いて何かをしています。熱心に坐禅に励んでいるお坊さんも禅堂を用いており、写経には筆と墨と紙と机が必要であり、どれほど深いヨーガに入っている人であろうと身体との関わりから逃れることはできません。そもそも「物に実体はない」という文は、「物は存在しない」を意味しているのではなく、「物の本質(存在)は物ではない」と語っているに過ぎません。物は「物ではない何か」(無)から成り立っているのであり、無は存在します。そして、この「存在する無」を捉えられるようになる方法が中道なのです。凡夫(外道)は「物だけが存在する」と思い込み、声聞・縁覚(小乗)は「空だけが存在する」とみなし続けます。第六住心に至った菩薩は、みずからの識を深めていくことによって、「空を捉える識」と「識によって捉えられる空」が同じであることを悟ろうとし、第七住心に至った菩薩は、「一切皆空」に目覚めつつ、物と空がどちらも存在することを悟ります。唯識派の教えと中観派の教えは「2つで1つ」(コンビ)なのであり、実大乗としての天台・華厳の2つの宗派の教えに至る中継所(仮の大乗)です。

 空海は、第二節で三論宗の教義(二諦、中道)を紹介し終わった後、第三節では『中論』『百論』『十二門論』の3書の概要を述べ、第四節「真言の密意」をもって第七巻を締めくくります。『三論宗を代表する人は文殊師利菩薩であり、教えの代表は『大般若波羅蜜多経』である。このような経典・論書に説かれている無量の教えや意義などは、ことごとく文殊師利菩薩を指す「マ字」に収め尽くされる。』(552訳)しかし、『文殊師利菩薩は、大日如来の智慧に過ぎない。大日如来を離れて別に文殊の智慧があるわけではない。』(552訳)── 第八・九巻で取り上げられる天台宗と華厳宗は、法相宗と三論宗を超えた「実大乗」なのですが、大日如来の智慧を語りあらわす真言宗には遠く及びません。つまり、第八住心も第九住心も、第十住心に至るための中継所(仮の密教)に過ぎないのです。

C 大乗仏教(実大乗)


 私たちは、三悪道を振り出しに、儒教などの古代中国の教えやヒンドゥー教などの古代インドの教えを経て、声聞・縁覚の2つの小乗の教えに至り、さらに法相・三論の2つの権大乗の教えを知りました。これから私たちは、権大乗を超える2つの実大乗、すなわち天台宗と華厳宗を学んでいくのですが、この2つの教えも「最高の教え」としての密教に至る中継所(権密乗)に過ぎません。空海は、華天両宗の教義を「極めて優れた教えである」と認めてはいますが、最高の存在(大日如来)を見極め、それを真言として語りあらわす真言宗(真言密教)には遠く及びません。ところで、唯識派と中観派は3~5世紀ごろインドで始まりましたが、天台宗と華厳宗は6~7世紀ごろ中国で興った宗派です。華厳宗は、奈良時代(736)に新羅出身の審祥(しんじょう)によって日本に伝えられ、のちに南都六宗の一つに挙げられます。いっぽう日本の天台宗は、平安時代(806)に最澄によって開かれましたが、中国の天台宗は華厳宗より先に興った宗派です。第八住心を導く教えとしての天台宗は、天台山に住んでいた智顗(ちぎ:538~597年)によって6世紀中ごろに開かれ、その後のアジアの仏教界に大きな影響を与え続けました。── それでは、『十住心論』第八巻を読み解きつつ、天台宗の教義に親しんでいきましょう。

【第八巻:一道無為住心】第八巻の注一には、次のようにあります。『一道無為(いちどうむい)住心:第七住心の空の世界を超えると、あるがままの絶対真理の風光が第八住心として展開する。「一道」は一実中道の略。「一実」は絶対にして真実なるもの、中道は相対矛盾を超出した立場。「無為」は原因・条件によって生ずる相対的な世界を離れたもの。いずれも「法華一乗」の教えが明らかにする心のありかた。これをまた「如実知自心」すなわち、ありのままに自らの心を知る心のありかた、または「空性無境心」すなわち、空そのものにして外界の対象存在の実在を否定する心のありかたとも名づける。これは天台宗でとくところである。』── ところで第八巻は、『十住心論』全10巻の中で最もページ数の少ない巻(27P)です。これは、天台宗の教えが、ほぼ中観派と唯識派によって語り尽くされているからです。にもかかわらず、空海が天台宗を「実大乗」に含めるのは、天台宗が『法華経』を根本経典としつつ、それまでに興ったあらゆる宗派の教えを「天台教学」(八宗兼学)の中に取り入れているからです。

 『法華経』は、『インド大乗仏教初期に成立した経典で、すべての仏教テキストのうちでも、もっとも重要な経の一つ。‥‥古くから、『法華経』をよりどころとして自説をたて、学派・宗派を確立した人々は数多く、また注釈書も圧倒的に多い。とくに、この経に依拠した中国の智顗に始まる天台宗は、最澄によって日本に伝えられ、その本拠の比叡山には、以後の出家者のほぼすべてが、いったんは籠って修行し、鎌倉仏教の祖師たちもここに学んだ。なかでも日蓮が『法華経』そのものに傾倒して、「南無法蓮華経」の唱題を始めたことは名高い。日蓮宗の系譜から出る現在の日本のいわゆる新宗教の多くも、『法華経』の精神の実践に活躍している。』(『日本大百科全書(ニッポニカ)』より)──『法華経の原本は紀元1世紀以降にインドで編纂されたという説が有力である。当時は、特別な修行を経た出家者のみが救済されるという考えが部派仏教の主流を成していた。これに対し法華経は、小乗・大乗の対立を乗り越えつつ、全ての人間が一乗(菩薩乗)を通じて平等に救済されるという仏教思想を強調した内容と理解される。』(ウィキペディア「法華経」より)

 最澄は、804年に唐に渡り、天台山修禅寺の道邃に師事し、翌年3月には菩薩戒を授かり、5月には多数の仏典をかかえて帰国の途につきました。最澄は、天皇に入唐の許可を求める上奏文の中で、『天台独り、論宗を斥けて特に経宗に立つ。論はこれ経の末、経はこれ論の本なり。』と述べています。論宗とは、論書に書かれた教えに従って成仏を目指す宗派を指します。しかし「論」は「仏の教えの解説書」であり、もとをたどれば釈迦の教えにたどり着きます。かたや「経」は、釈迦の言葉を集めた「仏語録」であり、その最高峰としての『法華経』に基づく天台宗の教えは「最高の教え」であるはずです。これまで最高の教えを説いた人は釈迦(仏陀)であり、天台宗は、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗を超えた「仏乗」(一乗)に帰ろうとする宗派なのです。

 さて、『十住心論』第八巻は、①大意と摂教、②天台宗義の綱要、③真言の密意の3節に分かれ、その内訳は ①8、②12、③7ページとなっています。空海は、②の冒頭で次のように述べています。『隋の天台山・国清寺の智者禅師(智顗)は、この教えによって「止観」を修め、法華の三昧(瞑想)を得、『法華経』『中論』『大智度論』をもって典拠とし、天台一派の教義を築いた。止観を修め、合わせて教えを奉ずるもののために次のように説いていわく、「正しく止観を修める者、あるいは心を観ずるには、次の10種の教え(十法門)をそなえねばならない。一には観不思議堺、二には起慈悲心、三には巧安止観、四には破法遍、五には識通塞、六には修道品、七には対治助開、八には知次位、九には能安忍、十には無法愛である」と。』(571~572訳)空海は、この10種の教えの内、観不思議堺、破法遍、無法愛の3つを大まかに(そそくさと)紹介し終わるやいなや、早々と「真言の密意」を明らかにする仕事に取り掛かります。空海が天台の教義を詳しく取り上げなかったのは、一つには、当時すでに天台宗が広く知れ渡っていたからなのですが、本当の理由は、『法華経』を典拠とする天台宗を、『華厳経』を奉ずる華厳宗の「入門」とみなしていたからです。

 どれほど時代や宗派が異なろうと、仏教の目的は「悟り」(成仏)ただ一つです。悟りに向かって修行に励むことが仏道なのであり、悟りに至る修行は、ことごとく瞑想(ヨーガ)です。そして、天台宗が掲げるヨーガは「止観」です。止観とは、『仏教の術語。止(シャマータ)と観(ビパシャーナ)の合成語で、智顗は全仏教の禅観を止観に統摂し「天台観法」とした。「止」とは、精神を集中し心が寂静となった状態をさし、「観」とは対象や真理をありのままに観察認識することを意味し、原始仏教以来用いられ、止と観とは互いに他を成立させる不離のものである。』(『日本大百科全書(ニッポニカ)』より)── 前にも述べたように、止観の「止」は存在への集中(ヨーガの実践)を、「観」は存在の認識(ヨーガの完成)を意味します。仏教は存在論であり、存在論は存在を捉えて語りあらわす仕事です。29歳で出家したゴータマ・シッダールタ(釈迦)は、数年にわたって厳しい苦行に打ち込んだすえ、苦行によって悟りに至ることはできないことに気づき、ひたすらヨーガに励むようになります。釈迦が菩提樹の下で悟ったことは「一切皆空」の一言に尽きます。釈迦は、ヨーガを通して最高の存在に目覚め、それを空(シューニャ)と呼びました。釈迦は、彼に従う弟子たちを自分と同じ「空に目覚めた人」(仏陀)にしようとして「悟りに至る道」(中道)を説き始めます。こうして釈迦の仕事、すなわち説法が始まったのですが、釈迦が亡くなった後、弟子たちは、師の教えが誤まり伝わったり・忘れ去られたりすることがないように、釈迦の説法を書き起こしていきます。これを「経」と呼びますが、天台宗の開祖・智顗は、最も重要な5つのお経を、釈迦が説かれた順番(五時)に並べつつ、お経が伝える教えの内容を8種(八教)に分けて解説しています。これを「五時八教」と呼びますが、ここでは「五時」だけを取り上げます。

①「華厳時」(仏乗):釈迦は、悟りを開いてから21日間、誰にも悟りの内容を伝えようとせず、みずからに向かって法(真理)を説きました。この時の説法の内容を伝えるのが『華厳経』です。『華厳経』に説かれているのは、釈迦が自分自身に向かって語り明かしている「悟りの境地」なので、個々の弟子の素質に合わせて語られた「方便」のように分かりやすくありません。

②「鹿苑時」(声聞乗):その後、釈迦は鹿野苑におもむき、かつての苦行仲間に向かって、中道、八正道、四諦、無我などの「仏道に導き入れるための教え」を12年にわたって説き続けます。この時期の説法を伝えるのが『阿含経』です。『阿含経』は最も古い仏教経典集であり、釈迦が語った言葉がそのまま記されているとされるお経ですが、小乗(声聞)のための教えとみなされたため、大乗の立場からは軽視されました。

③「方等時」(縁覚乗):続く8年間、釈迦は小乗を批判して、大乗に導くための教えを説きます。この時期の説法を伝えるのが『維摩経』です。『維摩経』の第9章では「入不二法門」(言葉もなく、説くことも示すことも認知することもできない境地)が説かれています。『維摩経』は、言葉によって真理を解くことはできず、沈黙こそ大乗に導く道であることを教えるお経です。

④「般若時」(菩薩乗):次の22年間、釈迦は大乗・小乗という2つの対立する教えへの執着を捨てさせようとして、徹底して空の思想を説きます。この時期の説法を伝えるのが『般若経』です。『般若経』には、悟りに至る菩薩の修行である「六波羅蜜」が説かれています。六波羅蜜は、菩薩が涅槃に至るための修行であり、中でも「般若波羅蜜」は他の5つの波羅蜜の土台となる「菩薩乗の根本」です。

⑤「法華涅槃時(法華一乗):最晩年の釈迦は、般若(悟りの智慧)を得てから涅槃(入滅)に至るまでの「心を完成させるヨーガ」を説きました。この時期の説法を伝えるのが『法華経』なのですが、さらに釈迦は、人生最期の夜に『涅槃教』を説き、それまでに伝えてきた教えに漏れていた者もすべて救ったとされています。

 このように、天台の教義では「法華一乗」を最高の教えとしているのですが、空海は華厳宗の教えを天台教義より「上」とみなしました。これは、『華厳経』が仏陀(目覚めた人)がみずから明かした「悟りの境地」を説いているからです。もちろん『法華経』にも極めて優れた教えが説かれているのですが、『華厳経』の「仏乗」には及びません。悟りを開いたばかりの釈迦が、最も深く隠された「悟りの境地」を自分一人に聞かせたのは、それが誰にも伝わらないことを心得ていたからです。ところが、真言宗では、悟りの境地(内証智)は語り伝えることができるとしています。第八住心の天台宗と第九住心の華厳宗は、三論宗と法相宗を超えた「実大乗」であり、第十住心の真言宗に迫る「密教の前段階」(権密教)です。空海は、第八住心の「密意」を次のように述べて第八巻を締めくくります。『一道無為住心として説くところの教えは、観自在菩薩の瞑想の教えである。‥‥観自在菩薩は「サ字」の一字をもって真言とする。『法華経』および他の観音部のお経は、みな観自在菩薩の「法曼荼羅」(真理の世界の姿)であり、「サ」一字の真言をもって、すべてを納め尽くしている。‥‥もしもこの真言の秘密の意味を捉えたならば、あらゆる真理の教えはことごとく平等であると知る。しかし、多くの名前や分かりやすい言葉で書かれたお経や論書や注釈書などに従って修行する者は、むだに長い年月を重ねつつ・むなしく心身の力を費やしながら、ついぞ悟りの境地に至ることはない。』(583~587訳)ここに言う「分かりやすい書物に従って修行する者」が、天台の教義を学んで悟ろうとする人々を指していることは言うまでもありません。かたや、真言宗の教え(真言密教)に従う人は、大日如来の三密にみずからの心を委ねることよって(三密加持)、すみやかに悟りの境地に至ることができます(即身成仏)。第九巻では、第十住心に至る「密道」の最後の中継所、華厳宗の教えに従う心の段階が明らかにされていきます。

【第九巻:極無自性住心】第九住心(華厳宗)の解説に入る前に、「よりそうお葬式」というウェブサイトから、岩田昌幸氏が書かれた「華厳宗の解説」を引用しておきます。初心者向けに柔らかい文体で綴られていますが、その外見とは裏腹に、華厳宗の教えについての手堅い紹介文であるのみならず、仏教の歴史をコンパクトにまとめ上げた優れた解説文でもあるので、これを読めば、これまで仏教について学んできたことの「おさらい」にもなるでしょう。例によって、一部の文章を割愛し、振り仮名を省き、いくつかの言い回しを変更させていただきましたが、意味が変わるような修正はほどこしていません。

 『華厳宗とは、衆生を釈迦の教えによって救済しようという「大乗仏教」に含まれる仏教の宗派で、その基となっている仏典は‥‥『華厳経』です。日本での華厳宗の歴史は、唐で『華厳経』を学んだ審祥という僧を、奈良の高名な僧である良弁が金鐘寺(後の東大寺)というお寺に招いたことから始まったとされています。‥‥聖武天皇の庇護を受けた華厳宗は、奈良時代から平安時代の初期にかけて日本国中で盛んに学ばれました。それからいくつもの時代を経た今も、東大寺は華厳宗の総本山として健在であり、その本尊である盧舎那仏は「奈良の大仏」として親しまれています。

 華厳宗の基礎である『華厳経』は、初めからひとつの経典であったわけではなく、仏教が誕生した国であるインドに伝わっていた、いくつもの経典をまとめるという形で編まれたものと考えられています。そのまとめられた経典のうち『十地経』について、‥‥世親が解説書『十地経論』を書き、ここから「地論宗」が生まれました。地論宗はさらに北道派と南道派に分かれるのですが、中国の僧・杜順が南道派の思想を基にして興したのが華厳宗だとされています。華厳宗が独立した宗派となるまでに複雑な経緯を辿ることになったのは、華厳経の内容が非常に難解だったためです。隋の時代の僧・智儼は、『華厳経』は釈迦が得た悟りについてそのまま書き綴ったものであると述べています。つまり、高度な教えに対し解釈が一切加えられていないので、それをどう理解するかが難しいということなのです。さまざまな立場の僧が『華厳経』の解読に挑んだ結果、華厳宗はその成立の過程で、数多くの宗派の流れを汲むことになりました。また、長い歴史の中で密教からの影響も受け、独自の教学‥‥を発展させていったのです。

 日本の歴史において、仏教は奈良、平安、鎌倉という3つの時代に大きく興隆しました。そのうち奈良時代に興ったものを、奈良仏教と呼びます。「南都六宗」とは、数多い奈良仏教の中でも代表的な六宗派を指す言葉で、華厳宗はその一派です。ただし、南都六宗という呼び名が奈良時代に存在したわけではありません。これは後の時代に、京都の平安京を北都、奈良の平城京を南都とし、平安時代に栄えた天台宗および真言宗を意味する「平安二宗」と区別する目的で付けられたものになります。南都六宗には華厳宗のほか、三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗がありましたが、半数はやがて衰退して歴史上から姿を消し、21世紀の現在でも存続しているのは華厳宗、法相宗、律宗です。南都六宗の特徴は、いずれも仏教を研究する学僧の流派という要素が強いものだったという、その性格にあります。奈良時代、仏教は国家のものであり、民衆に向かって直接仏の教えを説くことは、国家によって禁じられていました。学僧たちは国家から援助を受けて当時最先端の学問であった仏教を学び、代わりに国家のために法要を行い、流行り病や地震、飢饉などの災厄を免れるとする祈祷を捧げたのです。この仏教により国家を守護する思想を「鎮護国家」と言います。こうした理由から南都六宗は、ほぼ宗教的な儀礼を持つことがありませんでした。

 日本に仏教を伝えたのは中国の僧ですが、中国に仏教をもたらしたのは、隊商を組んでシルクロードを行き来する商人たちでした。紀元1世紀には仏教に関する記録があり、3世紀以降には本格的にサンスクリット語の仏典が漢語に翻訳されるようにもなっています。しかしそれは「格義仏教」と言い、仏教を老子・荘子の思想をもって解釈しようとするものだったのです。この状況に変革を起こしたのが、4世紀頃に西域から渡来してきたインドの僧たちです。鳩摩羅什は約300巻にも及ぶ経典を翻訳し、釈迦の教えが正しく伝わるよう務めました。また、仏図澄の弟子・釈道安は訳経を整理して正しい仏典の目録を作り、僧が守るべき規範を制定したのです。このような努力の末に格義仏教は一掃され、新たな中国仏教の流れが始まりました。そして5世紀に入ると、インドや西域から大乗仏教の経典が続々ともたらされるようになります。『華厳経』が伝来したのもこの頃でした。

 華厳宗の開祖は、6世紀後半から7世紀前半にかけて活動した中国の僧・杜順です。杜順は半ば伝説的な人物で、民衆の病を癒すなどの奇跡を起こし、文殊菩薩(知恵を司る仏)の化身とも言われました。杜順の跡を継いだ第2祖が智儼です。智儼は12歳のときに、偶然自宅を訪れた杜順にその才能を見出され、我が子と呼ばれて弟子となりました。智儼は、その後『華厳経』と「空」の思想に繋がる「唯識」の研究を統合し、華厳教学の基礎を築いたのです。智儼の跡を継いだ第3祖の法蔵は、師匠の遺した華厳教学を大成させました。また、全80巻にわたる『華厳経』の原本をあらためて訳し、翻訳の不備を修正しています。第4祖の澄観は、「四種法界」(四法界)という新たな世界の捉え方を唱えて、華厳教学を発展させました。第5祖の圭峰宗密は、教学と禅とを一体化させるという「教禅一致」を提唱します。‥‥宗祖の杜順から圭峰宗密まで、華厳宗を相承した5人を華厳宗の五祖と呼びます。華厳宗は第5祖法蔵の頃には新羅にも伝えられ、半島の統一を果たした文武王の庇護を得て広まりました。金鐘寺(東大寺)で華厳経の講義を行った審祥も法蔵の門下生です。

 華厳教学の中心は、第4祖の澄観が立てた「四種法界」の世界観です。「四種法界」では、世界をまず人間が普段感じている事物の世界である「事法界」と、すべては「空」(実体がない)であるとする理の世界「理法界」の2つに分けます。そして、この2つが互いを邪魔することなく存在している状態を「理事無礙法界」、理が消え・事物のみがそこにある「事々無礙法界」とするのです。普通の人間から見れば、4つの世界はそれぞれ別々に存在しているように思います。しかし、実はすべての世界は一つであると華厳教学は説くのです。非常に象徴的で哲学的な思想ですが、澄観は難解な『華厳経』を、この「四種法界」をもって解読しようと試みました。‥‥『華厳経』は漢語に訳されたもので全80巻という、膨大な巻数を持つお経です。また、その内容は釈迦が得た悟りをそのままに記したものであるため、弟子による解釈の加わらない、最も純粋な教えだと言えます。華厳宗の第3祖法蔵は『華厳経』について、数あるお経の中でも極めて深く、高度な内容を持つものであり、至高の教えであると判じました。華厳宗はさまざまな思想を取り込んで発展していきましたが、その基礎にあるものは常に、釈迦の悟りを説く『華厳経』です。華厳宗の教えは「法界縁起」という思想を核としています。この世を支配するものは「縁起」であり、「事法界」「理法界」「理事無礙法界」「事事無礙法界」の「四種法界」は、縁起により繋がれているのです。事物はそれぞれ独立しているように見えます。しかし、実は縁起により互いに関係し、調和して存在している、だからすべての存在も出来事も実は同じものなのだという考え方です。「我」を捨てれば「他」の存在と対立することはなく、どんなものも自身のみでは存在することはありません。一切は一つであり、一つは一切である、それが華厳宗の教えなのです。』

 さて、極無自性(ごくむじしょう)住心とは、『顕教の究極的な立場。絶対真理の世界は実際の現象面においては条件にしたがって顕現し、絶対なるそれ自体の本性を守っているに過ぎないものではないとする心のありかた。したがって、絶対真理の世界を説く第八住心をも究極的なものとせず、第九住心にすすむということ、そして第九住心もまた次の第十住心にすすむ中間的な心のありかたに過ぎないとする解しかたもある。いずれにしても、これは「蓮華蔵世界」という壮大な宇宙的世界観を説く華厳宗が明らかにしているところである。』(第九巻・注一)──『十住心論』第九巻は、①大意と摂教、②華厳宗の至要、③真言の密意の3節に分かれ、各節のページ数は、①11、②27、③20(計58)です。空海は、②の冒頭で、『華厳宗は、五教と十玄と六相と華厳三昧(華厳の瞑想)とをもって至要とす』(611原)と述べ、華厳宗の第3祖・法蔵の著書『金師子章』、第4祖・澄観の『新華厳疏』、開祖・杜順の『五教止観』の3書を解説することを通して、華厳宗の教えの要点を明らかにしていきますが、ここでは空海の説明は取り上げず、「法界」についての私の解説を手短かに述べて第十巻に話をつなげます。

 「法界」の法は「真理」を、界は「場所」を意味します。法界とは、そこにおいて真理がアラワになっている世界を指し、華厳宗における最高の世界に他なりません。菩提樹の下で悟りを開いた釈迦は、法界を見渡しつつ「一切皆空」に目覚めます。一切皆空は「何も存在しない」ではなく「すべては空から成り立っている」を意味します。法(ダルマ)は、すべてを成り立たせている「空の仕組み」を指しています。法界とは、あらゆる物を存在させる仕組みがアラワになる最高の世界であり、法界を見渡すには、心を最高の段階にまで高めねばなりません。それが、第九住心としての「極無自性住心」なのですが、「自性」とは「みずからの心」に他なりません。極無自性住心とは、自分の心が無である(空である)ことを見極めつつ、最高の世界(法界)を見渡している・最高の心の段階なのです。

 天台宗にしろ華厳宗にしろ、その他諸々の宗派にしろ、それらの教えの土台となる最高の存在、すなわち空は、釈迦・龍樹・世親の3人によって、ほぼ述べ尽くされています。そのため、この3人以外の多くの宗師の教えに詳しくなればなるほど、かえって空を見失うことになります。空海が「その他大勢」の日本の宗師たちと違うのは、彼が「仏教を超えよう」としたことにあります。空海が『十住心論』において様々な宗派の教えを解説したのは、それらを深く信じているがゆえに・かえって悟りの境地に至れない人たちを「とらわれ」から救い出すためだったのです。第九巻で取り上げられた華厳宗では、悟りの境地において見渡される最高の世界を「法界」と呼び、4種の法界(四法界)を語りあらわす仏を「毘盧舎那仏」と呼んでいます。第十巻で取り上げられる真言宗では、悟りの境地において見渡される最高の世界と、4種の曼荼羅(四種曼荼羅)を語りあらわす仏を、ともに大日如来と呼んでいます。空海にとって、悟りの境地と最高の世界と大日如来は「1つ」なのであり、それを「ただ1つの真言」(大真言)として聞き取って語りあらわす仕事が仏教を超えた仕事としての真言密教だったのです。── 17-4では、空海がどのようにして「人間が到達しうる最高の心の段階」すなわち「秘密荘厳住心」を語りあらわそうとしたのかを見ていきましょう。

17-4 『十住心論』第3部「密教」〈到達点〉


 §17では、空海の主著『秘密曼荼羅十住心論』を「世界の弁証法」として読み解いてきましたが、空海は、第2部「仏教」では取り立てて世界について語っていないように見えます。それは、小乗であろうと大乗であろうと、仏教における最高の世界は一貫して「涅槃」だからです。そのため第四巻から第九巻までは、涅槃(最高の瞬間)に至るための修行(ヨーガ)が深まっていく有り様が「世界の弁証法」として語られているのです。つまり、第2部は「ヨーガの弁証法」でもあるのです。仏教における最も深いヨーガは、釈迦が悟りを開いた時のヨーガです。空海が華厳宗を最も優れた仏教の宗派だとみなしたのは、華厳宗は、釈迦がたどり着いた最高の悟りの境地が語られている『華厳経』を教えの土台としているからです。ところが空海は、真言宗はあらゆる宗派を超えた最高の宗派である、と言い切っています。華厳宗が仏教の最高の宗派だとしたら、真言宗の教え(真言密教)は、仏教を超えた「超仏教」でなければなりません。超仏教に至る修行は「超ヨーガ」でなければならず、超ヨーガは「空」を超えた「超空」への集中でなければなりません。空海は、超空を「大日如来」と呼び、大日如来に集中する超ヨーガを「三摩地の法」と呼んでいます。大日如来が空を超えているのは、大日如来はみずからを語りあらわしているからです。空には、みずからを語りあらわすことはできませんが、大日如来は、常にみずからの悟りの境地(内証智)を真言として響かせています。大日如来が響かせている真言を聞き取りつつ、それを「声字」(言葉)として語りあらわせる人になることが真言宗の目的としての「即身成仏」であり、そこに至るための方法が三摩地の法なのです。空海は、言葉の根源を「存在の響き」として捉えつつ、それを聞き取る方法を語りあらわした、最初にして最後の日本人です。ところで『十住心論』の末尾を飾る第十巻では、最高の秘密、すなわち「大真言」が語られるはずだったのですが、大真言が明らかにされているはずの「全巻の結び」の部分は欠落しています。もともと書き上げるつもりがなかったのか、提出期限に間に合わなかっただけなのか、天皇に上奏する前に空海が取り除いたのか、奉納した後で誰かが破り捨ててしまったのか・・・今となっては誰にも分かりません。この「未完の大著」は、1200年の時を超えて、大いなる謎(大真言とは何か?)を響かせ続けています。私たちには、この謎を解き明かすことはできないかも知れませんが、この問いを問うことならできるはずです。大真言への問いは「言葉の存在」への問いであり、「言葉とは何か?」に答える仕事こそ、私たちの次の仕事・OZ-3『漢字とコトノハ』なのです。『十住心論』第十巻を読み解く仕事は、私たちを「言葉への問い」に導き入れてくれるに違いありません。と言うより、私たちは最初から言葉への問いの中にドップリ浸かっているのです。

【第十巻:秘密荘厳住心】『秘密荘厳(ひみつそうごん)住心:第九住心までの顕教に対して、この住心は密教の世界の無限の展開を示す。「究竟じて自心の源底を覚知し、実のごとく自身の数量を証悟す」と説かれる通りである。それを絵画によって造型的に表現したのが、胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅とである。身体と言葉と意の三つの秘密(三密)によって絶対者なる大日如来の世界である曼荼羅がかざられている心のありかた。第十住心は顕教を超越したものでありながら、しかもあらゆる顕教という形態をとって顕現しているとする。これを九顕十密という。浅くして簡略な解釈の仕方によれば顕教をそのまま認めることになるが、深奥な秘密の教えからみれば、あらゆる顕教はことごとく密教に他ならないとする立場に立つものである。』(第十巻「注一」)── 第十巻は、①大意、②法曼荼羅心、③四種曼荼羅、④金剛頂教の説、⑤法爾自然の法門、⑥付法伝来、⑦真言の随縁説法、⑧真言の字門、⑨真言および秘密の名義の顕密による区別、⑩真言と大真言との区別、以上の10節に分かれますが、①から④までの節は「最高の曼荼羅」を浮き彫りにする前半部、⑤から⑩までは「真言の教法」を明らかにする後半部となっています。それでは、各節の要点を引き立たせつつ、真言密教の「隠された秘密の答え」(大真言)に迫っていきましょう。

第十巻 ・ 前半部 「最高の曼荼羅」


①大意:空海は、第十巻の序節としての「大意」の中で、『大日経』からいくつかの文を引用しています(668~669訳)。『悟りとは、ありのままに自分の心を捉えることを言う。』この一句は『量り知れない意味を含んでいる。』そして『心が絶えず働き続ける姿は、諸々の仏の大いなる秘密である。』── 最高の存在を明らかにする仕事(一般存在論)である真言密教が、人間の心の高低の段階を明らかにする仕事(住心論)として実を結ぶことになったのは、存在は心の働きによって捉えられるからです。『十住心論』は、存在に背を向け続ける段階としての異生羝羊住心から、最高の存在と1つになる段階としての秘密荘厳住心に至る全行程を描き出した作品です。空海は、存在を「人間の居場所」すなわち世界として捉え、ありのままの世界の姿を「曼荼羅」と呼びました。外道の世界は「世間」であり、仏教が目指す世界は「世間の外」としての涅槃であり、密教が目指す世界は、涅槃を超えた大日如来です。そして大日如来の姿は、胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅として思い描かれます。この2つの最高の曼荼羅は、おのおの4種の曼荼羅に分かれて現われます。第十巻の前半部では、最高の世界としての大日如来の様々な姿が描かれていきます。

②法曼荼羅心:空海は、第2節の冒頭で『真言とは、仮に「語密」に従ってその名を得たのだが、梵語によって正しく呼ぶなら「曼荼羅」であり、龍樹は「秘密語」と呼んだ。とりあえず、語密についての真言法教(真言密教)に従って「法曼荼羅心」を明らかにすれば・・・』(671訳)と切り出しています。第十巻・注二十三には、法曼荼羅心とは『種子、すなわち諸尊を象徴する梵字で表現された曼荼羅の心要』とあります。サンスクリット語のダルマは、法、真理、存在、物の存在要素(元素)、説法など様々に翻訳されていますが、悟りを開いた人だけが捉えられるダルマとは「存在の仕組み」に他なりません。お釈迦様は、あらゆる物が生成消滅する仕組みを「五蘊の集合・分散」として捉え、個々の物には実体(永続する存在)がないことを明らかにしました(五蘊皆空)。あらゆる個々の物は、それではない物から・それに成ったのであり、どれほど壊れにくい物であっても、いずれはそれではない物に変わります。決して変わることがないのは、万物を生成消滅させている「仕組み」(法)だけであり、万物の集まり(自然界)としての世界(世間)は常に姿を変え続けています。法曼荼羅とは、決して変わることのない存在の仕組みの有り様に他なりません。法曼荼羅心の「心」は、いわゆる心(人間の存在)ではなく、「要所」(かなめどころ=中心)を意味します。法曼荼羅心とは、万物がそれを軸にして規則正しく巡っている「世界の仕組み」を指します。万物は法に従って生成消滅し、世界は法によって開き保たれています。そして、世界の仕組みとしての法は、真言としてアラワになります。様々な真言が1つに合わさって開かれている「法界」のありのまま姿が「法曼荼羅」なのであり、あまたの真言の頂点に立つ最高の真言が「ア字」(阿字)なのです。『阿字は「法を説く者」であり、同時に「法を聞く者」である。言いかえれば、阿字は大日如来がすべてを1つにする働きである。陀羅尼形(真言の字形)と語輪(真言の集まり)は、法曼荼羅をアラワにする。』(674訳)

③四種曼荼羅:空海は『即身成仏義』でも四種曼荼羅を取り上げていますが、『十住心論』では『成仏義』とは異なる仕方で四種曼荼羅が語られています。『十住心論』は、『成仏義』が書かれてから十数年後に仕上げられた作品です。その間に空海の心はさらに澄み渡り、よりハッキリと様々な曼荼羅を捉え分けられるようになっていました。『成仏義』を書き上げた頃の空海は、『大日経』などの密教の経典に書かれていることに沿った形で、みずからの教えを説いていますが、『十住心論』では、みずから捉えた曼荼羅を、みずからの言葉で語っています。たとえば、胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅は、大日如来のありのままの姿を「力」と「働き」に分けて描き出していますが、この両界曼荼羅と四種曼荼羅との関わり合いは、『成仏義』の中では取り上げられていません。先に述べたように、空海は「大意」の中で、『両界曼荼羅の各々は、さらに四種曼荼羅に分かれて現われる』と語っています。空海は、両界曼荼羅と四種曼荼羅の計6種の曼荼羅が集まって大日如来として現われていると述べているのでなく、大日如来はあくまでも胎蔵・金剛の2つの曼荼羅としてアラワになり、さらに両界曼荼羅の各々が4種の異なった曼荼羅として現われていると語っているのです。4つの力が1つに噛み合って開かれている胎蔵界、4つの働きが1つに組み合わさって運ばれている金剛界、この2つの世界を1つに合わせ「すべて」を包み込んで未来に向かって運び続けている・ただ1つの世界が大日如来なのです。そして、諸々の仏・菩薩には、唯一の世界としての大日如来の中に、各々のヨーガの深浅の段階に見合った「住所」が与えられています。こうして各々の住所に収まっている諸々の仏・菩薩の姿を描いた絵が「両界曼荼羅図」なのです。

④金剛頂経の説:③では、おもに『大日経』からの引用によって「四種曼荼羅」の意味が明らかにされましたが、④では『金剛頂経』からの引用によって「三密」の意味が解き明かされます。大日如来は、『常に三世において、破壊されることのない化身によって、生きとし生けるものを利益し安楽ならしめ、いっときも休むことなく働き続ける。』そして、『三世とは三密に他ならない。「破壊されない」とは「金剛」を指し、化身の「化」は「働き」を意味する。つまり(大日如来は)常に金剛のような3つの秘密の働きによって、三世にわたって、最も優れた法に従う喜びを自他に説き聞かせる。』(687訳)大日如来の「三密」とは、現在・過去・未来の「三世」を指し、大日如来の働きとしての金剛は、3つの時を1つに組み合わせつつ・すべてを「過去から未来への現在」の内に組み込み続けています。だとすると、前節で述べた金剛界の四種曼荼羅の「4」と三密の「3」の辻褄が合わなくなり、空海がそのつど「思いつき」を語っていることになってしまいますが、じつは四種の4は「三密+仕組み」を意味しています。大日如来は、三密と「三密を1つに噛み合わせる仕組み」によって成り立っています。仕組み(法)は、三密を超えた最高の働きなのですが、空海は、そのことをあえて強調することを怠りました。この「おこたり」を引き起こした原因は、空海の澄み切った眼差しにあります。空海は、誰よりもハッキリと三密を見極めつつ・三密の絡み合いを目の当たりにしていたからこそ、それらを語りあらわす方法を身につけることができなかったのです。空海は、最も深く隠された最高の曼荼羅(存在の仕組みの姿)を語りあらわさねばならなくなると、新たな方法を編み出す前に梵字(真言)を持ち出し、「これらの真言の一つ一つの中に、限りない意味が含まれている」と語って問いを片づけてしまいます。しかしこれは、空海の仕事の「欠点」ではなく「長所」です。私たちは、空海の仕事に親しむことによって、彼が手を着けようとしなかった問いに「答えてみせよう!」と志せるようになるからです。

第十巻 ・ 後半部 「真言の教法」


⑤法爾自然の法門:『大日経』によれば、『真言の教法は‥‥誰にも作ることはできない。にもかかわらず、それを知ることができるのは、大日如来が明らかに説いているからである。』大日如来が金剛薩埵に説いていわく、『この真言の教法は、あらゆる仏が作ったのでも、他の者に作らせたのでもない。‥‥この「法」(存在の仕組み)は、現われているがままの働きであるから。諸々の如来が世に現われようが現われまいが、諸々の「法」は、ありのままに働き続ける。それゆえ、諸々の真言は、法に従ってありのままの姿をあらわし続けているのである。』(690~691訳)大日如来の三密は、『結局、等しいのであるから、真言の教法は、常に同じ声字としてアラワになり、変化することはない。真言は、法に従って生成消滅する物ではない。もしも真言が作られた物だとしたら、いずれ消滅してしまうであろう。‥‥そのような物を「真実語」と呼ぶことはできない。‥‥一つ一つの真言は、法に従って・ありのままの姿で現われている。』(691~692訳)

⑥付法伝来:⑥では、真言の教法を伝えてきた7人の「大阿闍梨耶」(偉大な師)の名前が掲げられます。(14-1参照)

⑦真言の随縁説法:『師が弟子に教えを授け伝えることを知った。では、最初にどのように真言の教法を伝えたのか?‥‥大日如来がみずから明かす法は、如来が作ったのでも、天人が作ったのでもない。‥‥真言密教が伝える三密は、法身大日如来の三密である。‥‥何物によってもさまたげられることのない大日如来の知見(内証智)は、一切の衆生が生き代わり死に変わりする中にあって、あるがままに働きを貫き通し・欠け目がない。この真言のありのままの姿を、そのままに見極めることができない人たちを「生死の中に囚われた人」と呼ぶ。いっぽう、みずから捉えた法をハッキリ見る(聞く)ことができる人を「一切を智る者」とか「一切を見る者」と呼ぶ。』(693~694訳)誰が作ったのでもない法を捉え、それを語りあらわせるようになった人を仏陀(仏)と呼びます。仏は、『あらゆる世界は、もともと常に真理の世界(法に従う世界)であると知り、即時に大悲心を起される。なぜ多くの人々は、仏道のすぐ近くにいながら、みずから目覚めることができないのだろうか、と。』(694訳)生身の仏の説法は、ことごとく大日如来が説く「真言の教法」に基づいていますが、仏は、みずから聞き取った真言を世間の言葉に置きかえて語らざるを得ません。仏の説法を聞く人々は、真言を聞き取る耳が開いていない人たちだからです。しかも仏は、そのつど語りかけている個々の弟子に伝わりやすい言葉を選んで語るため、或る人にとっては「導き」となる言葉も、他の人にとっては「つまづき」となる場合が少なくありません。にもかかわらず、仏の説法は、大日如来の三密に加持されつつ、説法を聞く者の三密を加持します。大日如来は金剛薩埵を加持し、金剛薩埵は龍樹を加持し、龍樹は龍智を・・・こうして真言の教法は、空海に至るまで「縁に従って」(随縁)加持し続けてきたのです。説法とは、大日如来が語る真言を弟子に加持することであり、みずからを仲立ちとして、弟子の三密を大日如来の三密に噛み合わせようとする行ないなのです。

⑧真言の字門:『真言の教法は、どのように語りあらわされるのか?』という問いに、空海は、様々な梵字の字母(母音と子音)を掲げて答えます。梵字は「悉曇」(しったん)とも呼ばれ、日本語の50音表は悉曇の字母表を元にして生み出されています。『昨今、世間で読み習っている「悉曇章」というのも、もとはと言えば如来が説かれた真言である。‥‥世間では同じように用いているが、いまだかつて誰一人、真言の字相・字義、あるいは真実の文句を知らない。』(699訳)では、どうすれば真言のあるがままの意味を捉えられるようになるのでしょうか? 空海はこの問いに答えません。それどころか空海は、⑧の結びで『真言の実際の意味は、説き尽くすことはできない。これがつまり、ありのままに実義を知ることなのである。』と述べています。この一言は、空海の限界を指し示しています。空海は、真言を聞き取れるようになっても「真言の意味」を語りあらわすことはできないと語っているのです。なぜなら、真言の意味とは「真言の真言」に他ならず、それを人間の言葉で語りあらわすことは不可能だからです。真言は、あらゆる問いの答えなのであり、「真言とは何か?」に答えられるのは大日如来だけです。

⑨真言および秘密の名義の顕密による区別:『大日如来の語るところを「秘密の教え」(密教)と呼び、釈迦の語るところを「顕らかな教え」(顕教)と呼ぶ。しかし、釈迦の説法の中にも真言および密教と呼ばれる教えがある。この2つの「秘密の教え」の違いはどこにあるのか?』(701訳)『釈迦の説法は、多くの言葉を連ねて秘密の教えを説く。そこに説かれる真言の意味も、それを聞く相手の素質の優劣にともなって変わってしまう。‥‥秘密の教えにも大小があり、真言にも大小がある。それゆえ『菩提場経』には「我をば真言と呼び、また大真言とも言う」とある。ここに言う「真言」とは、応化身(生身の仏)が説く真言であり、「大真言」とは究極の法身・大日如来が説くところの真言である。』(701~702訳)

⑩真言と大真言との区別:空海は、⑩の冒頭で『真言と大真言とは、どのように異なるか?』と問い、さらにこの問いに答えようとし始めますが、最高の真言としての「阿字」の様々な意味を並べている最中に『十住心論』は幕を下ろしてしまいます。ア字は、龍樹が『中論』で八不の筆頭に掲げた「不生」を指します。不生は空を名指し、空は最高の存在です。空海にとってのア字は、最高の存在としての大日如来を名指す最高の真言です。空海は、「阿字本不生」の意味を明らかにすることを通して「大真言」の意味を明らかにして『十住心論』を締めくくろうとしたのですが、肝心の結論の部分は欠落しています。空海の主著『十住心論』の結論は、そのまま空海の全著作の結論でもあります。空海は、一生にわたって「大真言とは何か?」と問い続け、それに答えようとしましたが、空海の答えを彼の作品から知ることはできません。私たちが知っていることは、大真言とは大日如来に他ならず、大日如来は「ア字として」アラワになることだけです。ア字は、その内にあらゆる真言を含み込んでいる「大真言」であり、あらゆる真言がそこから放たれる大日如来であり、すべてをありのままに照らし出す光(遍照金剛)であり、法界であり、涅槃であり、最高の瞬間においてのみアラワになる最高の存在です。盤珪禅師は、最高の存在を「不生」と呼び、タルホは「A」(ア)と書きました。日本の最高の存在とは「ア字」に他ならず、日本の一般存在論は「大真言とは何か?」に答える仕事、すなわち「大真言の論理学」なのです。大真言の論理学とは、深く隠された(秘密の)大真言の意味(存在)を明らかにする教え、すなわち真言密教を指します。真言密教は、最高の存在を語りあらわす一般存在論なのです。

 §17では、『十住心論』を「世界の弁証法」として明らかにしてきました。世界は、心(人間の存在)が高まれば高まるほど、より広く・深く・明るくなって現われる存在であり、心を高めていくための方法は、ヨーガ(瞑想)です。ヨーガとは存在への集中に他ならず、心(思い)をより高い存在(世界)に向けて集めることが仏道(本来の人間の修行)なのです。それゆえ、様々な住心を導いていく教えは、ヨーガを深めるための方法を説きます。空海は、空を超えた大日如来に向けて心を集めるヨーガを三摩地の法と呼びました。三摩地の法とは、人間の三密を大日如来の三密とシックリ噛み合わせるための方法を言います。大日如来は、常にみずからを三密(身密・意密・語密)に分かちつつ、それらを噛み合わせてみずからを「ただ一つの存在」(最高の存在)として開き保ち続けていますが、空海は、『三密とは三世に他ならない』と語っています。三密とは、現在・過去・未来の3つの世(時)に他ならず、3つの時が1つに噛み合って開かれている「存在」とは「時間」に他なりません! 空海にとって最高の存在とは時間であり、時間としての大日如来は、最高の時間としての最高の瞬間としてアラワになります。ヨーガは、私たち人間を最高の瞬間に導いていく道(方法)であり、一般存在論を成しとげるための唯一の方法なのです。── OZ-2の最終章となる§18では、これまで述べてきたことを土台にして、まず真言密教をトコロギーに至るための「最高の中継所」として(18-1)、次にヨーガを「死への苦しみ」として(18-2)、さらに真言をコトノハとして明らかにします(18-3)。そして、OZ-2の最終話(18-4)では、これまでの日本の一般存在論の限界を見極めつつ、なぜ私たちの次の仕事が「コトノハの論理学」でなければならないのかを明らかにして、OZ-3に話をつなぎます。

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