設楽原古戦場かるた「む」
愛知県、新城市で起こった「長篠・設楽原の戦い」の古戦場に立てられた看板を巡る。今回は、[む]
村人は戦を避けて小屋久保(こやんくぼ)
村人たちは戦いの間、小屋久保という所に避難していました。という句です。
場所を探すのに、大変、たいへん苦労しました!!
案内の地図を見ても、とてもひとりで行ける気がしないのです。
あれこれ考えて、最終的に自分で判断するのを諦め、地元の観光ボランティアの方に相談しました。(設楽原ボランティアガイド・柴田様)
「ああ、林道のちょっとわかりにくい所にあるよ。案内してあげる」
快く返事をいただいた、そのすぐ後で
「林道、崩壊していて通れないから別ルート探すね、ちょっと待ってて」
と連絡がきました。
そして、後日、看板までのルートの下見動画をくださいました。
そして、この動画を見てもなおビビっている私を、バイクで先導して案内してくださいました。意を決して。いざ、小屋久保~!!

看板を見つけました。
場所は雁峰林道の中、携帯の電波が届かないので正確な位置は分かりません。
「え?ここが小屋久保ですか?」
ときいてしまいました。道以外どこにも小屋らしき跡地がない。
少し奥に行ってみましょうか…と提案されるも、本筋の道路が崩壊しているので現地に行くことは出来ない。ここは小屋久保のあった場所ではないかもしれないけれど、とにかく、看板は有った!と納得して帰宅しました。

後日分かったことです。
看板があったのは、小屋久保の入り口でした。通称小屋久保・正式名は
小屋久保高台。その名の通り山のてっぺんにあるようです。
雁峰林道に三カ所登り口があると看板に書かれています。
小屋久保は、布里~新城を結ぶ旧道沿いで、長篠の戦の時だけでなく、昔から村人が訪れる場所だったようです。近くにある鏡岩と呼ばれる岩は、草刈り鎌を研ぐ、砥石であったといわれています。草刈り小屋(道具置き場や休憩場所)もあったのでしょうか。
戦の時、
5人組でまとまって避難するようにお達しがあった~
雨具に食料、日用品、幼児子供を馬に乗せ移動した~
仏様を忘れた、と取りに戻るおばあさんもいた~
草鹿山(浅間山)からみていて戦が終わったのを知り麓に下りた~
こんなエピソードも残っているようです。

五人組体制で避難するようにお達しがあった・・・
ここが気になりました。
想像します。
避難したのは、竹広・梁田激戦地の村人たち、
麓から小屋まで5~6km…
……いったい何人くらいいたのでしょう?
戦は明け方から夕方まででしたが、村人たちは、戦が始まる前から、しばらく戻れないことを覚悟して避難したのでしょう。
5人ずつ束になって山に逃げた先の、小屋久保にどれだけの広さがあったのでしょうか?
現地に行ってみないとわかりませんが、
設楽原が見渡せるこの高台の地でどのように過ごし、どのように戦を見ていたのかがとても気になりました。
「村人は戦を避けて小屋久保」
という、たった一枚の看板。
それを探しに行ったら、「戦場」ではなく、「戦場から逃げた人々」の姿が見えてきました。
大河ドラマにも、戦を避けて山の中に身を隠す「隠れ里」のエピソードがあったのを思い出します。(女城主直虎)
昔から人々が行き来し、草刈りにも利用していたこの場所が、いざ戦になったときには、村人たちの避難場所になった。そう思うと、ここがあってよかったなぁ、と思います。
戦は、戦う人達だけでなく、村人にとっても大変な出来事なんですね。

参考文献:かるたでつづる設楽原古戦場
協力者 :設楽原ボランティアガイド・柴田様
道路に穴が開き、二か月近く記事にも穴が開きましたが、再開します!
次回は「う」です。
い、ろ、は、で始まる設楽原古戦場かるたを最初から読んでみたい方はこちら
