B バイアス(偏り)
人はなぜ、物事を見るときにバイアスをかけるのだろう。
偏見を持つことはよくない。先入観を捨てて相手を見るべきだ。多様な価値観を認めよう。そんな言葉は、もはや説明する必要もないほど社会に浸透している。それでも私たちは、相変わらず人を分類する。
陽キャと陰キャ。体育会系と文化系。意識が高い人と低い人。保守的な人と革新的な人。優しい人と冷たい人。まともな人と変な人。
なぜなら、分類したほうが楽だからだ。
バイアスという言葉には、思想や差別、偏見といった強い意味がまとわりつく。しかし、もっと日常的なところで起きているバイアスは、そこまで大仰なものではないのではないかと思う。
むしろ、コミュニケーションを省エネ化するためのライフハックに近い。
本来、人間は恐ろしく複雑だ。同じ人が仕事では几帳面なのに私生活ではだらしなかったり、普段は穏やかなのに特定の話題だけ猛烈に頑固だったりする。昨日言ったことと今日言っていることが違うこともある。それを矛盾と呼ぶこともできるが、人間とはそもそもそういうものなのだろう。
ところが、一人の人間をその複雑さのまま理解しようとすると、とてつもなくコストがかかる。
だから私たちはラベルを貼る。
「この人はこういうタイプだ」
そう決めてしまえば、その後のコミュニケーションは圧倒的に楽になる。未知だった相手を、自分がすでに持っている人物図鑑のどこかのページに収納できるからだ。
興味深いのは、相手を「完全に理解したい」と考えている人ほど、必ずしも相手への解像度を高めているとは限らないことだ。
相手を理解するとは、本来、自分の知らないものに出会うことでもあるはずだ。しかし実際には、自分の常識の範囲を広げるのではなく、「この人は自分の知っているどのタイプに近いのか」を探していることがある。
理解しているようで、やっていることは圧縮だ。
高解像度の人間を、扱いやすい低解像度のデータへ変換している。
これは人間関係だけの話ではない。
エンタメを見るときにも、同じことが起きている。
わかりやすい例が、ヒーローと悪役という構図だ。
誰が正しいのか。誰が間違っているのか。誰を応援すればいいのか。誰を批判すればいいのか。
勧善懲悪のフォーマットは非常に便利だ。登場人物の事情や作品の構造を細かく考えなくても、善と悪の箱を用意すれば物語を理解した気になれる。
しかし、優れたドラマや映画ほど、その箱から人間をはみ出させようとする。
善人が卑怯なことをする。嫌な人間が誰かを救う。被害者が誰かを傷つけ、加害者にも人生がある。正しいことをした人間が誰かを不幸にすることもある。
その曖昧さこそ人間を描く面白さなのに、見る側が強引に「結局こいつが悪い」と整理してしまう。
作品が複雑になっても、受け取る側が単純化してしまえば、物語は再び勧善懲悪になる。
これは作品を見る能力がないというより、複雑なものを複雑なまま保持することが面倒なのだと思う。
「普通に考えたら」
「常識的に考えれば」
「普通の人なら」
こうした言葉も強力な圧縮装置になる。
普通とは誰なのか。常識とはどの範囲の常識なのか。本当は確認しなければならない。しかし、「普通」という巨大な箱を置いてしまえば、その作業を省略できる。
しかも、その箱の中には大抵、自分と似た人たちが入っている。
結果として生まれるのが、同質性の高いコミュニティだ。
少し皮肉なのは、これだけ「多様性」という言葉が使われる時代になったにもかかわらず、コミュニケーションそのものが多様になったとは言い切れないことだ。
ドラマにもバラエティにも、以前よりさまざまな属性や価値観を持った人が登場する。SNSでは、かつてなら一生接点がなかったような人の考えにも触れられる。
枝葉は確実に多様になった。
しかし、その枝葉を受け取る方法はどうだろう。
賛成か反対か。
好きか嫌いか。
正しいか間違っているか。
味方か敵か。
入口が増えた一方で、出口はむしろ少なくなっているようにも見える。
コミュニケーションツールは驚くほど進化した。電話からメールになり、SNSになり、誰もがいつでも世界中に言葉を投げられる。
しかし、通信速度が上がったからといって、人間の理解速度まで上がったわけではない。
むしろ大量の人間、大量の意見、大量の作品に触れなければならなくなったからこそ、私たちは以前より激しくラベリングを必要としているのかもしれない。
一人ひとりを丁寧に理解していたら、処理が追いつかない。
だからバイアスをかける。
そう考えると、バイアスとは思想による偏りである以前に、情報過多の社会を生きるための省エネ機能なのではないかと思う。
もちろん、省エネそのものが悪いわけではない。
毎回すべてをゼロから考えていたら、人間は生活できない。経験からパターンを作り、ある程度予測することは必要だ。
問題は、省エネしていることを忘れることだ。
「こういう人だろう」と仮置きしたはずのラベルを、いつの間にか「こういう人に違いない」という事実に変えてしまう。
バイアスをなくすことなど、おそらくできない。
必要なのは、バイアスを持たないことではなく、自分がいま何かを省略して見ている可能性を残しておくことなのだと思う。
この人は、私が貼ったラベルより複雑かもしれない。
この作品は、私が理解した筋書きとは違うことを言っているかもしれない。
私が「普通」と呼んでいるものは、たまたま私の周囲で普通なだけかもしれない。
理解とは、相手を自分の世界の中に収納することではない。
自分の世界には入らないものが存在すると認めることなのかもしれない。
コミュニケーションの道具がこれほど進化した時代だからこそ、最後に必要になるのは案外そんな面倒くささなのだと思う。
