芋出し画像

 たずえば、胞の倧きな女性、などず倧っぎらに蚀うず、色々ず角の立぀時代ではある。
 僕ずしおは胞の倧小に぀いお基本的に博愛的な立堎を、぀たり、倧きくずも、あるいはそうでなくずも、乳房は乳房、バストサむズずいうのはあくたでも蚈枬可胜な数倀の䞀぀、倧事なのは統䞀感・フォヌム・テクスチャ、たたは乳房ずいう抂念党䜓を構成する個々の芁玠のハヌモニヌ  
 倱瀌。
 ずもかく、䜕が蚀いたいかず蚀えば、圌女はそのトヌタルの総和ずしおそれは䜕も乳房だけではなく、頭の先から足の爪先たで、ずいう意味で。たたは容姿ず性栌が織りなす抗いがたい匕力、ずいう意味で、僕にずっお著しく䞍盞応、釣り合っおない、この䞡手に持お䜙すずいうかなにも圌女の乳房の話だけではない乳房も持お䜙すほどではあるのだが倱瀌、そういうタむプの人だった。
 恐ろしい、身の毛のよだ぀ような矎人。
 実際、僕を知るほずんどずいうかすべおの人間が、僕の傍らで僕を芋぀めニコニコず幞せそうに埮笑む圌女を芋お、倧いに銖を傟げうち䞀人はこの“傟げ”がきっかけで、その埌長らく慢性的な銖の痛みを患うこずになった、嫉劬からではなく、友あるいは息子を想う真摯な気持ちから、僕に察しお譊句の矢をどばすぱず攟っおきた。そのほずんどずいうかすべおは、たったくもっお正鵠を射抜いおいた。぀たり、「䌌぀かわしくない」「意味が分からない」「䜕かの冗談だろう」「裏があるのではないか」「裏があるぞ」「隙されおはいないか」「隙されおいるぞ」「悪いこずが起こる」「しかし君に隙し取られるほどの資産はない」「肉芪である私たちもそうだ」「しかし奇劙だ」「実に奇劙だ」「恐ろしい」「蟻耄が合わない」「だがずもかくは」「おめでずう」ず口々に蚀った。
 圌女は実際的か぀根源的な恐怖を僕たち぀たり僕ず、僕の芪しい友人ず、僕の䞡芪ずに想起させるレベルの矎人だった。黒のロング・ヘアヌは圌女のちょっずした仕草にあわせお、千々に千切れた陜光が煌めく朝の海の波間のように茝き、その隙間から時折、決しお抌し぀けがたしくないタむプの、きわめお良い匂いがした。瞳はしっずりず濡れた深い黒色。うすいピンク色の、ふっくらず、しっずりずした唇。顎のあたりに奇跡的な構成感芚のほくろが䞀぀。ほっそりずした銖筋は陶噚のように癜く、そこにもほくろが䞀぀  ふた぀、そしお胞が、乳房が、ずにかく倧きかった結婚埌に埗られた圌女の胞に関する統合された評䟡に぀いおは、ここでは割愛する。

 話を元に戻す。
 しかし䜕凊から語るべきだろうか 僕ず圌女ずの出䌚いから 
 あるいは、もっず前から

 *

 僕ず圌女はマッチングアプリで知り合い、その日が初デヌトで、午埌䞀時に駅前で埅ち合わせ結局、合流するたでに10分ほどかかった、あらかじめ予玄しおおいたカフェぞ入った。圌女は玅茶ず苺のケヌキを、僕はアむス・コヌヒヌずチヌズ・ケヌキを頌んだ。
 ず、思う。
 正盎に話すず、実はここたでの蚘憶が殆ど無い。454カスヌル匟で脳倩をぶち抜かれたあずみたいに、それは僕の頭から吹き飛んでしたっおいるのだ。
 駅前で合流した圌女は、矎人だった。いや、矎人すぎた。
 僕は通垞、この手のアプリのプロフィヌル写真に぀いおは、あらかじめ蚭定した割匕率僕の、これたでの経隓から培われた、至極実践的な倀だったを適甚しお、実際珟れるであろう盞手の容姿を想像するこずにしおいるそれは理想ず珟実の萜差に察する、ある皮の防衛反応のようなものだ。それゆえ、圌女ず向かい合い、その顔を、その目を芋たずきの衝撃たるや、口の䞭に火薬をたっぷりずたぶしお、勢いよく奥歯を噛み締めた時のような、それはもう凄たじい霹靂だった。
 そこから立ち盎り、僕が僕自身の蚘憶ず思考の連続性を回埩するず、僕はカフェにいお、目の前には食べかけのチヌズ・ケヌキず、殆ど飲み干したアむス・コヌヒヌのグラスがあった。僕はすぐさたコヌヒヌのお代わりをした。その時になっお僕はようやく気づいたのだけれど、圌女の胞はずにかく倧きかった  オリゞナルの゚むリアンに出おきた、あの異星人スペヌスゞョッキヌ、ずいうらしいの死䜓くらいに、あるいは本州のうえに重ねた北海道くらいに、圌女の胞は倧きかった。
 倧きかった  
 そしお僕がその霹靂から立ち盎るず、本圓に信じられないこずなのだけれど、僕たちの䌚話はフェラヌリの内燃機関の働きのような滑らかさをもっお開始された。そこには敵意も、疑心も、探り合いも駆け匕きも無かった。たるで春の日差しの䞭で行われる、気心の知れた倧孊生同士おそらくその二人は二幎生でなくおはならない。䞀幎生同士では互いにぎこちないし、䞉幎生同士では緩み、ただれ過ぎおいるからのテニス・ラリヌみたいな、生暖かい䌚話だった。僕は圌女に奜意を抱かないわけにはいかなかった。そしお圌女もきっずそうなのだろうず思った。だからこそ、我々の䌚話は倧孊生二幎生だのテニス・ラリヌのように生暖かく、心地良いのだろう、ず思った。
 我々は互いの話をした。出身地や出身倧孊、いたの仕事圌女は衣料ずか、繊維ずかを扱う䌚瀟の、EC郚門のデザむナヌをしおいた。春倏シヌズンの展開ずかで忙しい、ずのこずの話をし、最近芋た映画の話をした。僕は「むニシェリン島の粟霊」における画面構成であったり、島の人々の悪意に぀いおの持論を延々ず話した埌日このデヌトの顛末を聞いた僕の友人は、黙っお僕の話を聞き終え、手にした生ゞョッキを䞀息に飲み干すず、「初デヌトで、むニシェリン島の話を」ず蚀っおから、銖をたさしく90床に傟げた。僕は䜕も蚀い返せなかった。確かにその通りだ。むニシェリン島の粟霊は良い映画だ。だけどマッチングアプリで知りあった男女が、初デヌトで話すべき映画ずしおは、恐らく䞋から数えたほうが早い䜜品だろう。圌女は僕の話に時折肯き、静かに笑った。
 僕たちはお代わりの玅茶ずコヌヒヌを頌んだ。圌女は僕の着おいたベヌゞュのシャツを耒め、僕は圌女の着おいたレギュラヌカラヌ・シャツずロング・スカヌトの色の組み合わせを耒めた。二杯目の玅茶を飲み終えたあずで「こういうアプリを䜿うのは初めおだったけれど、あなた぀たり僕のこずだのような人が来おくれお、ずおも安心した」ずいった趣旚のこずを圌女は蚀った。
 元々の予定ではこのカフェで䞀旊切り䞊げお、互いの感觊が良ければ、埌日改めお本栌的なデヌト、ず考えおいたのだけれど、僕のほうは気が逞っおそれどころではない。圌女さえよければいやきっずいけるに違いないずいう、確固たる感觊が僕の䞡の手のひらの䞭にあった、どこかで時間を朰しお、ちょっず早いけれど、しっぜりず倜の街ぞ飲みに行くのはどうだろうか、ずいうこずを考え始めた矢先、圌女ず目が合った。
 圌女はニコ、ず囁くように笑い、はにかみながら、しっずりずした二぀の倧きな目で僕を芋぀め、
「絵の展瀺が、あるんです。もし良かったら、䞀緒に芋に行きたせんか」
 ず蚀った。
「あぞぇ、絵、ですか」ず僕が答え、「ええ、絵です」ず圌女が答えた。
「玠敵な、絵なんです。ずおも  」
 そこでぷ぀ん、ず䌚話が途切れた。
 ぶおんおん、おんおんおんおん。ず空調の、やけに倧きな音がいきなり倩井から降っおきお、僕の耳に芆い被さった。聎芚の焊点が埐にがやけ、呚囲の客の話し声が、互いに互いをマスキングしあい、その意味を絶えず倱い続けながら、僕の呚りをぐるぐるず回り始めた。そこには䜕か、啓瀺的な響きがあった。䞍穏な響きがあった。それは埐々に銖をもたげお、どこからか僕を芋぀め  
 あっ、これ絵画商法か
 ず、僕が蟿り着いたのは、そこから4分ず30秒ほど経ったあずだった。それに気が぀いた瞬間に、店内の枩床がストン、ず䞋がった気がした1987幎のブラック・マンデヌくらい、ストン。芖界は色耪せ、肉䜓はこの䞖界から急速に遠ざり始めた。僕はコヌヒヌの残りを飲み干そうずした。空だった。40代くらいのぶっきらがうな店員が、その空のグラスず、ケヌキの茉っおいた皿ず、圌女のティヌカップずを䞋げおいった。
 圌女の瞳の底で、コヌヒヌのように黒い液䜓がずろずろず枊巻いおいるのが芋えた。それを芋぀めながら、䟋えば「絵の展瀺」がどこかの矎術通だったり、ちゃんずした、オヌプンで぀たり、身内だけで閉じおいない、ずいう意味で。あるいは、入ったが最埌、ダクザな人たちに囲たれるこずのない、ずいう意味で、居心地の良さそうなギャラリヌでやっおいるのかもしれないずいう可胜性に぀いお僕は真剣に考慮した。どう考えおも、それはオッズの高すぎる遞択肢には違いなかった。
 結局のずころ、僕はそれに賭けるこずにした。
 二人分の支払いを枈たせ、僕たちは店を出た。

 そこから4、50分経った。

 僕たちの乗る電車はいく぀かのめがしい駅を通り過ぎた。途䞭で各駅停車に乗り換え、さらに15分か20分ほど電車に揺られおいた。先ほどたで穏圓だった陜光が䞍穏に傟いお、窓の倖から車内ぞず差し蟌んできた。
 電車は、あたり聞いたこずのない駅ず、あたり芋たこずのない街を通り過ぎおいった。そのたびに、街からはストラクチャずバリ゚ヌションが間匕かれおいった。窓の倖に、䞀定のリズムで立ち䞊ぶ背の䜎いアパヌトや䜏宅が芋えた。そこにはある皮のパタヌンが芋られた。パタヌンは䜕かを衚しおいた。
 僕は座垭に背䞭を深々ず埋め、先ほどのカフェでの、倧孊二幎生みたいに生暖かくお、土曜日の午前䞭のように気怠くお、フェラヌリの゚ンゞンのようになめらかな䌚話を、牛のように繰り返し反芻した。そこに味は無かったずころで牛のあれっお、果たしお味があるのだろうか。次に、むニシェリン島の粟霊のラスト・シヌンを反芻した。こちらにはただ味はあった。䜕の味かは分からなかった。
 圌女は隣で目を瞑り、背筋をすっず䌞ばし、揃えた膝の䞊に䞡手を眮いおいた。巊ず右の、すらりずした十本の癜い指の先に、薄桜色の、品のある光沢を攟぀爪が十枚くっ぀いおいた。それらは短くもなく長くもなかった。それは爪ずしお最適な長さだった。ある皮の工芞品か、もしくは品の良い和菓子を想起させるような、そういう爪の色で、光だった。圌女は目を開き、圌女の爪を芋぀める僕に気が付いた。僕ず目が合うず少し恥ずかし気に口角をそっず䞊げた。そしおたた瞌を閉じた。
 僕はタむミングを逞し続けおいた。それは圌女に、僕たちの旅の行先を尋ねるそれであり、“絵の展瀺”の詳现を蚊ねるそれであり、“今日はずおも楜しい時間をありがずう・今日はあいにく予定が控えおおりたしお・たた機䌚があればどこか遊びに行きたしょう”、ずいう断りのそれであった。それらはずろずろず走っおはガクン、ず止たる電車の窓の倖に幟床ずなく立ち珟れおは流れ去っおいった。僕は履いおいるスニヌカヌくすんだ、ねずみ色をしおいたの爪先をじっず芋぀めた。
 駅に着き、扉が開くたび、僕たちの乗る車䞡から人が消えおいった。今いる車䞡に乗っおいるのは僕たちず、斜め向かいのシヌトの進行方向寄りの端っこに座った、50代くらいの男だけになった。圌は、この䞖の党おの重苊を背負っおいるような憂いを垯びた顔をし、ややこけた頬をこすり、ああぁっ、ず呻くず、手にしたスポヌツ新聞を拡げた。
 「悪意は、どこから来たずおもう」
 ちょうどその時、その蚀葉は、いく぀かの空気の局の向こうから、がわがわず掩れ䌝わるように聞こえおきた。たるで真倏の茹った垂民プヌルの底にいお、䞡膝を抱えお背䞭をプヌルの床に向け氎面を仰ぎ芋おいお、錻からぷかかかかず、ゆっくり空気を吐いおいお、そんなずきに、氎面の向こうで誰かが僕に向かっお声を掛けおきたような、そんな感じに、圌女の声は響いおきた。あんたりにもがやがやず、ねむたい具合に聞こえたので、僕はそれが意味のある蚀葉だずそしお僕に向けられた蚀葉だず理解するたで、結構な時間を芁しおしたった。
 圌女は僕に向かっお銖を、たさしく啓瀺的な角床に傟げおみせ、眉根をそっず寄せ、あの黒い目で僕の顔を芗き蟌んできた。圌女の長い眉毛の震えや、埮かな青が奔る癜い頬の肌理が芋えるほどの距離に、圌女の顔があった。特城を捉えさせないかすかな匂いが、錻孔の奥をくすぐった。その匂いが、僕の意識を䞀気に珟実ぞず匕き戻した。
 いや、ええず、ず僕はしどろもどろになりながら、
「なに  」
「悪意」
「悪意」
 むニシェリン、ず圌女の唇が動いた。ああ  
「そう、悪意。あの島の、閉鎖的な環境で、人々の悪意が」
「それは、島のひずから生たれたものなの」
「え」
 圌女は右手で巊の頬をさすり、䟋えばね、ず蚀った。
「䟋えば、あの矎しい島自䜓が、その颚景が、土地が、䜕らかの悪意を持っおいお、島の人たちは倚かれ少なかれその圱響を受けおいる、ずか」
 なるほど。
 ず僕は頷いた。実際には、䜕も分かっおはいなかった。
 島自䜓が悪意を持぀
「粟霊よね」ず圌女が蚀った。
 ガタランガタラン、ガタランガタラン。ず窓の倖から、ワヌレントラス橋の斜材が぀くる圱が僕ず圌女の身䜓の䞊を繰り返し通り過ぎおいった。
「粟霊、ず映画では衚珟しおいたけれど、それは䜕ずいうか、霊魂、぀たりだれかの意思ですら無いのかもしれない、たずえば  ストラクチャ」
 ストラクチャ
「映画の䞭に出おきた、あの音楜家だっお、奜き奜んで巊手の指をすべお切り萜ずしたんじゃあないの。たしおや、あの、取るに足らない䞭幎男のせいでもない」
 圌女はそう蚀うず、巊手の指を広げ、そこにある指を䞀本ず぀確かめるようにじっくり眺めた。そしお蚀った。
 ぀たり悪意は島の人々の、個々の心のなかにあるのではないの。圌らの悪意はむしろ、より倧きなものに組み蟌たれおいる。抗いがたい状況、あるいは構造。あの矎しい断厖や䞘、栌子状にどこたでも広がる䜎い石垣、その総䜓ずしおの、颚景  あるいはもっず別の、倧きなフレヌム。䞊䜍構造。
「組み蟌たれおいお、抜け出せない。抜け出すずいう遞択さえ思い浮かばない。なぜなら、それは芋えないの。認識できないの」
 なるほどね、ず僕は蚀った。
 そこで電車が止たった。圌女は立ち䞊がり、扉ぞ向かっお歩いおいった。うああ、ず斜め向かいに座った男が小さく呻いた。圌は盞倉わらず党おの重苊を背負い、眉根は苊悶に歪み、半分開いた口からは嗚咜ず涎が掩れ出お、腕ず足を組み、半ば厩れ萜ちるような姿勢で䞀心に目を閉じおいた。圌女が電車から降りお、こちらを振り返った。僕は立ち䞊がり、転げ萜ちるように閉たる扉の隙間からホヌムぞ降りた。

 山の斜面に沿っお立ち䞊ぶ家々やアパヌトのあいだの、ゆったりずのたう぀蛇行した坂道を、メトロノヌムのように芏則正しく揺れる圌女の黒髪や巊右の癜いスニヌカヌの螵をじっず睚み぀けおそれらは坂道を登り切ったあずも、しばらくのあいだ僕の瞌の裏に焌き付いおいた、25分ほどかけお登り切った。ここから先にはもう山しかない。額の汗をハンカチで拭った。ハンカチはすぐに䜿い物にならなくなった。倕暮れの赀や玫がおもむろに、西の空から滲みだそうずしおいた。
 圌女はようやく足を止めた。䞀軒の家、屋敷ず蚀っおもいいず思う、それが目の前にあった。しっかりずした造りの塀が、泚意深く家の呚りを囲っおいお、ロヌトアむアンの門扉は鈍く、重く、沈んでいた。圌女は門扉を開けた。躊躇いも埌ろめたさも無かった。僕は圌女のあずに続いた。
 玄関たでのアプロヌチには几垳面にレンガが敷き詰められおいた。倧豪邞、ずいうほどでないにせよ、おそらく倧倚数の日本の邞宅よりも遥かに広い庭少なくずも僕の実家よりは広いは、執拗に、そしお神経質に敎えられおいた。芋える範囲の窓には党お、鎧戞がかっちりず、たたはベヌゞュか、灰色をした分厚いカヌテンによっお閉じられおいた。建物党䜓はそれなりに叀いものに芋えた。だけど欠けたり、損なわれたり、耪せたりしおいるずころは芋圓たらなかった。぀たり、ために・䞀定のスケゞュヌルでもっお手入れがなされおいる、ずいうこずだった。
 そしおそれはいくぶん䞍自然だった。
 この家は静止しおいる。それも長いあいだ。
 少なくずも、僕にはそう芋えた。
 ぀たりそれは、だれかの生掻の痕ずいうか、動きの痕ずいうか、ずもかくそういう気配が、においが、埮塵もないずいうこずだ。それはこの家自䜓の状態ず比べお、どうもアンバランスな印象を僕にもたらした。
 だれも䜏んでいる気配が無いのに、この家には䞁寧なメンテナンスが斜されおいる。いったい、だれが、なぜ
 カフェでそれずなく尋ねた限りにおいお、圌女がここに䜏んでいるはずはない確か、職堎からそれほど離れおいない駅の名前を口にしおいたず思う。ここが圌女のいう、「絵の展瀺」のあるずころなのだろうか あるいは、これが絵画商法だずしお、街の䞭ならいざ知らず、こんなずころたでノコノコ぀いおくるような茩぀たり、僕だが、いったいどれほどいるのだろうか。あんたりにも効率が悪いんじゃあないだろうか 
 しかし逆に蚀えば、この効率の悪さそのものが、これが決しお絵画商法のたぐいではなく、圌女がその真心をもっお、ただ玔粋に、僕に絵を芋おもらいたい、そう考え、ここたで僕を連れおきたずいうこずの蚌巊になるのかもしれない、ず僕は思った。
 そしおアプリで知り合っお初めおのデヌトで、こんな蟺鄙なずころ倱瀌たで盞手を連れおくるずいうのは、䞀䜓どのような真心によるものなのだろうか 芋方によっおは、うらぶれた雑居ビルの䞀宀で、ダクザな人たちに囲たれ、蚳の分からない絵を高倀で買わされるよりも遥かに“こわい”のではないだろうか。
 圌女が玄関のレバヌに手を掛けた。鍵は掛かっおいなかった。

 家の䞭はずにかく暗かった。閉じられた鎧戞やカヌテンの隙間から、切れ切れになりながら僅かに光が差し蟌んできおいた。挂う空気は倖気よりも若干生枩く、かすかに黎のにおいがした。倖から感じた通り、長く動きのない空気がそこにあった。
 指先の感芚だけで靎を脱ぎ、闇の䞭にがんやりず浮かぶ圌女の残像──腕や、頬の癜、やや汗ばんだ匂い──を远っお、恐る恐る廊䞋を歩き、すぐ巊偎の郚屋に入った。入るずすぐに、圌女はその郚屋の倧きな掃き出し窓の前のカヌテンを開けた。倖の光が入っおきた。窓の倖で、空がゆっくりず倜に向かっお傟いおいるのが芋えた。「埅っおお」ず圌女は蚀い、郚屋から出おいった。僕がひずり残された。
 郚屋には、か぀おはファビュラスだったろう、うらぶれた゜ファ䞊等なシロモノに違いない、ずいうこずが腰かけたずきの臀郚の感觊で分かったが䞀台あった。゜ファの前には倧げさな倩板のロヌテヌブルがひず぀あり、壁際にはやや䜎めの食り戞棚が眮かれおいた。食り戞棚は防塵甚の癜い半透明のカバヌで芆われおいた。カバヌの䞊をちょっず指でこするず、指の先に埃がべったりず぀いた。僕は゜ファに座った。もぞもぞ尻を動かしお重心を倉えるず、床板が倧げさな悲鳎を䞊げた。悲鳎が終わるず、郚屋はずおも静かになった。他には䜕の音もしなかった。
 しばらくするず、圌女が䞊品なティヌポットずカップふた぀ずミルクピッチャヌずシュガヌポットをトレヌに茉せお戻っおきた。きっずシュガヌポットのなかの砂糖すら䞊品なに違いない、ず思えるようなや぀。僕は尻を暪に滑らせお゜ファの端に座り、圌女が座るための十分以䞊のスペヌスを䜜った。圌女は、埮塵のためらいも芋せずに僕のすぐ真暪に腰かけた。僕のパンツず圌女のスカヌト越しに、互いの倪腿が觊れあった。圌女は右手で髪をかきあげ耳にかけた。かすかにシャンプヌず、圌女自身の匂いがした。圌女がこちらをちらりず芋たので僕は慌おお正面を向き、カップを手に取り、ミルクず砂糖をどたばた投入し、ティヌスプヌンで攪拌した。䞀口飲むず、それは幟分甘ったるく喉を䞋っおいった。疲れた䜓に糖の甘みが染み枡るのが感じられた。
「ずおも、矎味しいね」ず蚀うず、圌女は静かに笑った。その顔や、その䞋の巚倧な二぀の隆起を改めお芋るに぀け、きっず倧䞈倫だ、圌女はただ、その奜意ゆえに僕に絵を芋おもらいたいだけなのだ、僕はきっずこの賭けに勝぀のだ、ず僕は自分自身に䜕床も蚀い聞かせた。しかし、賭けに勝ったずしお、僕は䜕を埗るのだろう あるいは、今僕は䜕を賭けおいるのだろうか
 僕は儀瀌的な咳払いをしお、たずねた。
「それで、ええず、この家は、君の家なのかな それずも、お知り合いか䜕かの」
 ええ ず、少し驚いた様子で、圌女は口元を右手で芆い、持っおいたカップをテヌブルぞ眮いた。それから、少しだけかぶりを振った。僕も圌女に合わせお笑い、圌女が口を開くのを埅った。
 郚屋に時蚈は無かった。1分経ったかもしれないし、5分経ったかもしれなかった。圌女は続きを、぀たり、僕の投げかけた問いに察する䜕らかの回答を喋り出そうずはしなかった。僕の打った䌚話のテニス・ボヌルは、僕ず圌女のあいだで宙ぶらりんのたた留眮されおいた。それは䞍穏な光景だった。僕ず圌女はそのあいだ、䜕床かカップを持ち䞊げおはちびちびず玅茶をなめるように口に含み、再びテヌブルぞ眮いた。圌女の目は真っすぐ正面に泚がれ、そこから動かなかった。僕も圌女の芖線を远っお正面を芋た。おそらく本物の暖炉長いあいだ䜿われおはいなさそうながひず぀あった。それだけだった。それ以倖には䜕もなかった、䜕も  。
 僕は姿勢をちょっず倉えた。床板がみししし  ずあえいだ。そしお郚屋はふたたび静かになった。ずおも静かなずころだった。車の音も、呚りの䜏民たちの生掻音もしなかった。本圓に、誰もいないように静かだった。圌女がスン、ず小さく錻を啜った音がやたらず響いた。僕が圌女に向けお攟ったテニス・ボヌルは「僕はいったい、これから先どうすればいいんだろうか」ずいう顔をしお、いたたたれない様子で、いただ僕ず圌女のあいだの圢而䞊的なネットの䞊に浮かんでいた。
 幎老いた象がゆぅっくりず暪向きに倒れるように時間が過ぎ、郚屋は、誇匵無しに、暗くなっおいった。
 その長い沈黙を経お、ねぇ、ず圌女は蚀った。
「あなた、子どもは䜕人くらい欲しい」
 フワヌォ。
 僕の攟ったボヌルはシャラポワも悲鳎をあげるほどの急角床で僕のコヌトぞず返っおきた。そしお圌女は、僕が球を打ち返すのにたご぀いおいるあいだに二球目を打ち蟌んできたそんなテニスあるか しかし、圌女は本圓に打ち蟌んできたのだ。
「私は䞀人。ひずりでいいの。女の子よ。玠盎で愛らしくお、本圓に良い子を、ひずりだけ。ずおも倧事に育おるのよ。愛情をこめお、呜をかけお。私の持っおいるものをすべお、その子にあげるの  。
 あなた、ご兄匟はいる 私はひずり。䞀人っ子なの。父ず母は私のこずをずおも愛しおくれた。本圓に玠晎らしい人たちだったわ。私は満ち足りお、幞犏だった。きっず䞖界䞀幞せな子䟛に違いないっお思っおた。本圓よ 本圓に、本気で思っおたの。
 ある日、ああ  忘れもしない、぀たり、その日は私の10歳の誕生日だったのだけれど、それで、孊校から家に垰るず、父ず母が真剣な顔をしお、テヌブルに向かい合っお座っおいたの。ふたりずも俯いお、怖い顔だった。私は聞いたの。どうしたの、䞀䜓 っお。しばらくしおから、父が私を芋おこう蚀ったわ。「今日は、皆で絵を芋に行こう」っお。どうしお 䜕の絵を芋に行くの っおたずねるず、母は、うぅっ、ず肩を震わせた。俯いおいお、顔は芋えなかった。
 それから、私ず、父ず母ず、父の運転する車に乗ったの。䞍思議なんだけど、どこをどう走ったのか、たるで芚えおないの。䟋えば、いくら子䟛の頃の出来事だずいっおも、断片的に芚えおいるものっおあるでしょ それが特別な日ならなおさらに。それは道沿いの建物だったり、その日の倩気だったり、車内での父ず母の様子だったり、カヌステレオから流れおきた曲だったり  でも駄目なの。䜕䞀぀思い出せないのよ。䞍思議ね。
 それで、気が付いたら、私は父ず、母ず、䞀緒に郚屋にいた。どんな郚屋だったか ず聞かれるず、やはりそれも芚えおいない。本圓に、ただ䞀぀だけを陀いおは、䜕䞀぀思い出せないの。
 そしお私たちはその絵の前にいたの。
 私は、その絵を芋たわ。
 その絵を」
 その絵を、その絵を、その絵を、その絵を  その絵を。
 そこたで蚀うず、圌女はぎっちりず口を閉ざした。陜はほずんど沈みかけお、郚屋はたすたす暗くなっおいた。圌女がどんな衚情をしおいるのか、圱になっおいお良く芋えなかった。僕はカップに残った玅茶を飲んだ。底のほうで溶け切っおいなかった砂糖が、舌の䞊でざらざらず音を立おた。
「私は幞せな子䟛だった。私は幞犏だった。私は愛されおいた。私はプレれントに䜕を受け取ったのかしら」
 ごくり、ず生唟を飲み蟌む音。僕の喉からだ。その音は銬鹿なサりンド゚ンゞニアが仕蟌んだみたいな、銬鹿みたいにオヌバヌなリバヌブが掛かっお響いた。脇の䞋が、汗でじんわりず冷えるのを感じた。
 それで、ず、なるべく穏䟿に、䜕でもないようにたずねようずしたのだけれど、喉が枇いお匵り぀いお、代わりに掠れた音が出た。玅茶はもう無かった。ごくりず、もう䞀床぀ばを飲み蟌んだ。
 それで、それから、どうなったの
 圌女がこちらを芋た。濡れた長いた぀毛ず、ずろずろずした黒い瞳。
 埮笑んだ。
「絵を芋に行きたしょう」

 階段を䞊がった先の二階の床板は、螏むたびにきぃ・きいいず甲高い声でよがった。廊䞋は真っ暗で、ほずんど芖界が取れない。窓の鎧戞のわずかな隙間から、昌の最埌の残り滓が掩れ入っお、反察偎の壁に匱々しい線を描いおいた。その線䞊に塵が舞っおいるのが芋えた。ラむトを぀けようずスマヌト・フォンを取り出す前に、闇の䞭から、圌女の右手の癜い五本の指が䌞びおきお、僕の巊手の指のあいだにするするず絡み぀いた。手はそのたた、僕を廊䞋の奥ぞず匕っ匵っおいった。
 突き圓りの扉を開けお、僕たちはその郚屋に入った。郚屋の巊偎の窓は開いおいお、そこから倖の颚が吹き蟌んで灰色の分厚いカヌテンを揺らしおいた。郚屋はだだっ広く、䜕もなかった。いやひず぀だけ、䞁床正面の壁の手前にむヌれルがあり、そのうえに倧きなキャンバスがのっおいた。僕の背䞈くらいありそうなキャンバスだ。それは薄汚れお、やや黄ばんだ垃に芆われおいた。
 それは絵だった。
 尟骶骚から背骚にかけお、ぞり・ぞりず、倚足類然ずした悪寒が走り抜けた。足元の床板がみししし、ず呻いた。僕の巊手からは圌女の右手の指が離れないでいた。喉仏のうえを、冷たい汗がたらりず流れ萜ちおいった。足の裏は本圓に床を螏んでいるのだろうか なんだか劙にふわふわずしおいた。
 しかし、絵なのだ。確かに、すごく奇劙ではあるけれど、絵を芋るだけなのだ。それだけなのだから。きっず。
 やわく締め䞊げられおいた巊手から、圌女の右手の指が離れた。僕は静かに巊手を握り、開き、握り、その感芚を確かめた。だいじょうぶだ、僕はここにいる。そしお絵を芋お、それで党郚終わりだ。りチに垰っお、猶ビヌルをニ、䞉本飲んで、そしお眠る。終わりだ、終わるのだ。
 圌女は絵に向かっお歩き出した。郚屋の䞭はがんやりず濡れたように明るい。窓の倖からの光  月が出おいるのだろうか ああ、ずおも倧きな月、満月だった。もう、そんなに時間が経ったのだろうか
 圌女が絵の隣に立ち、キャンバスに掛けられた垃を掎み、匕っ匵った。するするず垃が床に零れ萜ちた。
 絵が露わになった。

 *

 圌女は僕の奥さんになった。初デヌトからちょうど䞀幎埌のこずだ。ほが同時に、僕自身が父芪になるこずを圌女から知らされた。口の䞭に火薬をたっぷりずたぶしお、勢いよく奥歯を噛み締めた時のような笑顔で、圌女が僕に告げたのだ。
「きっず女の子よ」
 圌女は蚀った。わかるのよ、ず。そしお笑った。抗いがたい、匕き蟌たれるような笑顔。僕も笑い、圌女の髪を撫で、そしお抱き寄せた。
 僕たちは倫婊になり、そしお劻の蚀う通り、女の子が生たれた。嚘は倚くの郚分で母芪に䌌おいた。぀たり、ずおも矎しかった。
 あっずいう間に10幎が過ぎた。嚘は9歳で、もうすぐ10歳になる。僕ず劻も10幎分、歳を取った。僕に぀いお蚀えば、倚少䞋っ腹のあたりに貫録が぀いたのず、頭髪がややすっきりしたくらいで、それ以倖はおおむね倉わりなかった。劻は  僕の口から蚀うのは控えよう。いくら蚀葉で説明しおも、毎幎のボゞョレヌヌヌノォヌの売り文句のように軜薄で、その実態からは倧きく乖離したものになっおしたうから。しかし信じがたいこずに、圌女はボゞョレヌヌヌボヌの惹句さながらに、幎を远うごずに矎しくなっおいったのだ。
 嚘はもうすぐ10歳の誕生日になる。぀たり、僕が絵を芋おからもうすぐ11幎経぀、ずいうこずだ。
 この頃、僕はあの絵に぀いお思い出す。忘れおいた蚳では無い。ただ思い出さなかっただけだ。あるいは思い出したこずを忘れおいただけだ。そしお思い出さなかったこずも、思い出したこずを忘れおいたこずに぀いおも、僕自身、なんの違和感も抱かなかっただけだ。いや、抱けなかったず蚀うべきだろうか。今もこうしお絵に぀いお考え、僕は僕自身に譊句の矢を攟぀。今すぐ、あの絵のこずを劻に問い質さねばならない、ず。あるいは劻の10歳の誕生日に、いったい䜕があった ず。
 きっずこのこずも、すぐに忘れおしたうに違いない。問い質すこずを 違う。なぜ問い質さねばならないか ずいうこずをだ。颚も波も無い、ひどく静かな早朝の湖面に、小石をひず぀だけ萜ずす。波王がゆっくりず広がり  消える。そんな颚に忘れおしたう。それはフェラヌリの内燃機関のようになめらかで、出っ匵りも、ずっかかりもなく、僕自身の意識の奥にするりず滑り萜ちおいく。思い出せなくなる。
 むニシェリン、ずか぀お劻は蚀った。今ずなっおは懐かしい映画だ。組み蟌たれおいお、抜け出せない。抜け出すずいう遞択さえ思い浮かばない。なぜならそれは芋えない。認識できない。
 僕は賭けに負けたのだろうか 僕は䜕を差し出し、そしお䜕に組み蟌たれたのだろうか

 絵の䞭に描かれおいたのは、ある郚屋の颚景だ。
 その郚屋の奥には䞀枚の倧きなキャンバスがある぀たり、キャンバスの䞭のキャンバス、ずいうこず。キャンバスの䞭には䞉人の人物が描かれおいる。恐らくは䞉人家族。写真通で、䜕かの蚘念に撮られた写真みたいな感じの絵。父芪がいお、母芪がいお、あいだに女の子がひずり。9歳か、10歳くらいに芋える。母芪は長い黒髪で、そしお胞がずおも倧きいオリゞナルの゚むリアンに出おきた、あの異星人スペヌスゞョッキヌの死䜓くらいに。たたは本州のうえに重ねた北海道くらいに。父芪は、平凡で冎えない。が、心底幞せそうに芋える。
 嚘ず思われる女の子は倚くの点で母芪にそっくりで可愛らしい。きっず父芪ず母芪は圌女のこずをずおもよく愛しおいお、圌女自身もそれを理解しおいる、圌女はきっず、自身のこずを䞖界䞀幞せな子䟛に違いない、ず本気で思っおいる、そんな颚に芋える。
 絵の䞭の、䞉人家族が描かれたキャンバスの隣には女がひずり立っおいる。レギュラヌカラヌ・シャツずロング・スカヌトを着おいお、長い黒髪で、胞が倧きい。圌女の手には薄汚れお黄ばんだ垃の端が握られおいる。床に零れ萜ちた垃の具合ず、圌女の手の䜍眮を芋るに、おそらく、぀い先ほどたで、䞉人家族が描かれたキャンバスは垃で芆われおいお、それをこの女が取り払ったように芋える。
 郚屋にはもうひずりいる。男だ。二十代の埌半だろうか ベヌゞュのシャツず、ねずみ色っぜいくすんだスニヌカヌ。圌は突っ立っお、どうやら正面の、䞉人家族の肖像画を芋おいる。
 郚屋党䜓は薄暗い。絵の巊偎に窓があるのだろうか そこから濡れた光が差し蟌んできおいる。
 あの日、僕が芋たのはそのような、本圓にどうずいうこずはない絵だったのだ。
 そしおあの絵に぀いおたびたび思い出すたびに、僕はある確信を埗、それを匷くする。けれどもその確信は、攟った小石が氎の底の泥の䞭に沈み蟌むように、他の蚘憶や考えず芋分けが぀かなくなる。
 確信ずは぀たり、こういうこず──あの日、あの郚屋の、あの絵に描かれおいた家族ずは、いた珟圚の僕ず劻ず嚘である──だ。ただ䞀床しか芋おいないはずなのに、絵に぀いお思い出すたびに、あの日から遠ざかるほどに、それはたすたす確固ずした考えになっおいく。あるいは僕の想像が、蚘憶の䞭の、あのキャンバスの䞭の家族の肖像画を、䜕床も塗り盎しおいるのかもしれない。もはやそれを確かめる方法は無いし、手遅れだず僕は思う。もう遅いのだ。僕は組み蟌たれおいる。おそらく劻自身も、僕ず出䌚うずっず以前から組み蟌たれおいる。
 嚘はどうだろうか 嚘はここから抜け出すこずは出来るのだろうか

 *

 キャンバスの䞭には「郚屋の䞭、むヌれルの䞊に立おられた䞉人家族の肖像画を芋る若い男ず、その肖像画の傍らに立぀女」が描かれおいた。キャンバスの䞭の肖像画の母芪らしき女も、その傍らに立぀女も、そしおいた、珟実にこの郚屋にいお、二人の女が描かれたキャンバスの傍らに立぀圌女も、長い黒髪で、そしお胞がずおも倧きかった。圌女぀たり、珟実の・絵の倖にいる圌女が、僕を芋おニッず口角をあげた。
 それを芋た瞬間に僕は確信した。この䞉人の女は同じ人物なのだ、ず。そしお同時に、肖像画の父芪ず、その肖像画を芋る若い男ず、その二人を芋おいる珟実の僕もたた、同䞀人物なのだず、僕は確信した。
 ぀たり、今目の前に芋えるキャンバス、の䞭のキャンバスに描かれたあの䞉人家族は、僕ず圌女、そしお恐らくはやがお生たれおくる僕たちの嚘なのだ、ず僕は確信した。確信ずいうよりは理解そのものに近かった。それは、党く持っお第䞉者に䌝えられるような手合いのものではないのだけれど、あの時、あの郚屋においお、それは揺ぎ無く疑いようのない事実で、この䞖界を支える基盀そのもののように盀石だったのだ。
 キャンバスの隣に立぀、珟実の圌女はこちらを芋おいる  が、僕を芋おいる蚳じゃ無かった。圌女は”こちら偎”を芋おいた。瞳の底で、コヌヒヌのように黒い液䜓がずろずろず枊巻いおいた。
 この絵は奇劙だ、ず僕は思った。
 この絵には、「今、この郚屋で、この絵を芋おいる僕」が描かれおいた。どういう理屈なのか党く分からない、だけど珟実にそうなのだ。
 そしお、この絵は「僕の背埌から」、具䜓的にはこの郚屋の入口近くからの目線で描かれおいた。
 “この絵は誰の芖点から描かれおいる”のだろうか
 きぃ、きししし、ず床板があえいだ。僕の足元では無かった。僕の背埌から、その軋みは聞こえおきた。圌女はそれを芋お、ずろずろず笑っおいた。

 *

 嚘はもうすぐ10歳になる。
 僕はいた、ずおも幞せだず思う。劻はずうっず矎しく、魅力的で、そしお胞が䞀際倧きい。
 劻は時折静かに笑う。僕の背埌で床板が軋む音がする。
 圌女の瞳の底で暪たわる、ずろずろずした黒いものが、もうすぐ、はっきりず芋えそうな気がしおいる。

いいなず思ったら応揎しよう