「桜餅あるよ」の電話で走り出す自転車
サザエさんを観ていたら「桜餅の渋滞問題」が勃発していた。お客さんも、お客さんを迎えるフネさんもお軽さんも、全員が桜餅を買ってきてしまい、それをどう消費しようかと悪戦苦闘するという話だ。
サブちゃんにお裾分けしたり、晩酌の代わりに桜餅とお茶を出したりなど、桜餅の有効的な活用を検討するサザエたち。晩酌に桜餅が出てきて「これはどういうことだ?」となるマスオと波平。(←こいつらは黙って桜餅で酒を飲め。)
一見、サザエさんでしか起き得なそうな「桜餅の渋滞」は、かつての私にとってもとても身近な出来事だった。
私もかつて、桜餅に呼び出されていたのだ。
5歳から中学卒業間近まで、地元のピアノ教室に通っていた。とてつもない田舎で、先生は神のように扱われていた。上手に弾くことができないと「はい、今日はレッスンしません」と指導を強制終了することもしばしば。ショートカットでいつも大きな宝石を身につけていることから、「細木数子」とダイレクトなあだ名で陰口を言うほど、当初は先生のことが嫌いだった。
小3のある日、レッスンに訪れると先生が一人ででノクターン第20番 嬰ハ短調(遺作)を弾いていた。私はその時初めて、レッスン以外で先生のピアノを聴いた。
そのとき、先生は細木数子ではなくなった。
そのノクターンがなんともやるせないメロディラインだったということも影響していると思うが、先生が先生でもなく、いろんな「何か」と折り合いをつけながら生きているただの大人に見えたからだ。大人になっても辛いことは、そのまま辛いままなのかもしれない。そんな風に思いながらレッスン室から聴こえる音色をこっそり噛み締めていた。
そのノクターンをきっかけに、少しずつ先生のことが好きになっていった。
中学3年の秋、さすがに高校受験に本腰を入れなければと教室を辞めるための挨拶をしに行った。
「受験が終わったらまた来る?」と聞かれて、
「いや、わかんない。」と答えた。
我ながらひどい返答だ。
先生は笑いながら泣いていた。
「あんた、そういう答え方するの、小さい頃から変わんないわね。本当可愛くない。」
そう、私は本当に可愛くない生徒だったのに、先生はなんだかんだで辛抱強く教えてくれていたのだ。
それから数ヶ月後。
高校に入った私は、自転車で全速力でピアノ教室に向かっていた。
買ったばかりの携帯に電話がかかってきたのだ。
「桜餅もらいすぎちゃって、食べきれないから来ない?お茶しましょ。」
私は、こどもの頃から桜餅が好きだった。
先生はそれを覚えてくれていたのだ。
ただ、桜餅を食べに行くというたったそれだけの理由で呼ばれて、たったそれだけの理由で行っていいのかと一瞬だけ迷った。
でも、結局、行くことにした。
蔵の入り口で、先生が手招きしていた。
数ヶ月ぶりに見るその姿は、少し小さくなったように見えて、心がぎゅっとなった。
高校の話をして、桜餅を食べて、それだけで帰った。
それから定期的に
「お菓子あるからお茶しに来なさいよ!」
という電話が来るようになった。
私はそのたびに、自転車を飛ばした。
いつのまにか、先生の茶飲み相手になっていた。
当時の私は部活にも入らず、某ファーストフードでバイトをしていたのだが、接客態度がよくないと店長に怒られてばかりだった。
その話をすると、先生は
「黙ってる方が性に合ってそうだもんね!」
と豪快に笑い、
「いいバイトあるけどやる?」と尋ねた。
「金がもらえるなら!」と私はとてもいい返事をした。
それは、声楽の音大生たちの帰郷コンサートのピアノ伴奏のバイトだった。
もちろん練習しないわけにはいかないので、結局また、私はそこに通うことになった。
今度は生徒ではなく、バイトとして。
なんだこのシステムと思いながら、生涯学習センターや文化ホールなどの会場に制服のまま自転車でピットインし、ステージ上では黒子のように黙って伴奏をするだけの仕事は、かなり性に合っていた。思わぬ形ではあるが、一度はやめたはずのピアノに触れるのはなんだかんだで嬉しかったのだ。
そして、この出来事は、理由がないと人に会いに行ってはいけないと思っていた私の考えを変えるきっかけにもなった。
桜餅でも、伴奏でも、居心地の良い場所に戻る口実はなんでもよかったのだ。きっと。
そして、こどもの時からぶっきらぼうで生きづらそうな私のことを、先生はたぶん、こっそり気にして、元の居場所に戻してくれていたのだと思う。
だから私は、先生からの着信を無視したことは一度もなく、毎回ちゃんと自転車を走らせていたのだ。
あれから、ずいぶん時が流れたが、ふとした瞬間に電話がかかってこないか淡い期待を抱いている。
今年も先生のところで、桜餅が渋滞しますように。
