隅田川の花火と、千円のスニーカー
隅田川花火大会の日、
久しぶりに「勝負靴」を履いた。
靴箱の奥から取り出したその靴は、
ゴルフコンペのたびに履いていた、革靴だった。
最後に履いたのは、たぶん二年前。
家を出てしばらく歩くと、足元が気になった。
違和感はあったが、
気のせいだと思い込もうとした。
歩けないわけではない。
そのまま妻と並んで浅草へ向かった。
人波に揉まれながら浅草寺界隈を歩いていると、ついに限界が訪れた。
ペリッ。
そんな音が聞こえた気がした。
右足の裏に妙な感触が広がる。
足元を見ると、ソールが見事にはがれていた。
まるで大口を開けた魚のような姿になっている。
花火見物どころではない。
慌てて近くの店に駆け込み、靴売り場を探した。
紳士用の靴は一種類しか置いていなかった。
選ぶ余地はなかったが、背に腹は代えられない。
値札を見ると税抜千円だった。
三万円以上した革靴から千円のスニーカーへ。
履き替えてみると、これが意外なほど悪くない。
軽くて、むしろ歩きやすかった。
私は思わず苦笑した。
あの勝負靴には、私なりの歴史が詰まっていた。
普段の私は、衣食住の「衣」には驚くほど無頓着である。
着られればいい、履ければいい。
その程度の人間だ。
「そんな高い靴、ほんまに買うん?」
「たまにはええやん」
珍しく奮発して買った、その一足だった。
履けば少しだけ背筋が伸びた。
コンペの朝、玄関でその靴に足を入れる瞬間は、
試合前の儀式のようでもあった。
関節リウマチを患い、主治医から「ゴルフはやめた方がいい」と言われた。
休日も、人との出会いも、季節の移ろいも、その多くがゴルフと結びついていた。
やめる決断は簡単ではなかった。
それでも身体には逆らえず、クラブもバッグも処分した。
でも、汚れの目立つその靴だけは捨てられなかった。
いつか何か特別な日に履こう。
そんなことを考えて残しておいたのだ。
結局、特別な日は訪れなかった。
靴箱の奥で眠り続け、
久しぶりに履いたその日に役目を終えた。
夕暮れが深まり、隅田川の花火が始まった。
轟音が夜空を揺らし、
色鮮やかな光が次々と闇を染めていく。
大輪のあと、線香花火のように静かに消えていく花火が好きだ。
その姿を見上げながら、
不思議とあの靴のことを思った。
ゴルフに夢中だった時間も、
勝負に一喜一憂した日々も、もう戻らない。
それでも、消えてしまったわけではない。
夜空に滲む残光のように、
今の私のどこかを確かに形づくっている。
いいなと思ったら応援しよう!
いただいたチップにて大好きなコーヒーを購入させていただきます!