「自己責任」という詭弁
「自己責任論」という言葉を、ここ最近よく目にする。
主な理由はこのコロナ禍において、「自粛」という言葉が叫ばれており、多くの行動に対して制限がかかっているからである。日本では多くの場合、その人のモラルや性善的な考え方によって、「感染を拡大させる行動を取るはずがない」という同調圧力的な要素を絡めて行動に制限をかけている。
しかしここで、日本における「自粛」について論うつもりはない。どちらかというと、この世に蔓延っている「自己責任」という言葉の方に焦点をおいてみよう。
基本的に、人が「自己責任」という考え方に靡く場合、おおよそ社会不安がある時であると考えることができる。社会的に不安定になっていき、多くの問題が社会的に「個人」へと還元されている状態で、そんな中人は「自己責任だ!」と叫びたがる。なぜだろうか? 社会的に不安になればどうして人はやたらと責任を示し合わせたかのように「個人」へと追求したがるのだろう。
それは、非常にシンプルであり、「自分に余裕がなくなるから」だろう。
他人のことを自分のことのように考える余裕がなくなるといえばより正確かもしれない。「自己責任」は、特定の個人の行動に原因を帰結させるものだが、それはつまり、問題を一元的に捉えることができるという簡易性が潜んでいる。
なにか事件が起きました、そしてその原因は〇〇さんの行ったこんな行動が原因でした。
そういう単純な回答のほうが余裕がないときは咀嚼しやすい。それ以外にも、単純に物事を深く考えない人にとっては珠玉の回答と言っていいだろう。非常に端的でわかりやすく、責任を明確にすることができる。
だがその裏には、背景となっている本当の問題に気がつくことのできない危うさが存在していて、個人という存在をスケープゴートにして、事柄の本質をあやふやにし、同時になんとなく問題を解決した風に思い込むことができる便利な概念。それが「自己責任論」の本質だ。
私にとって「自己責任」なんて言葉は、「思考停止の詭弁」であると断言できる。
これほどまでに万人において使いやすく、一般化された概念らしき存在はない。責任は誰か一人に押し付けられるし、しかもシンプルに事態を収束させることができる。なんだか本質的なところがわからなくて、同じようなことが起こるかもしれないけどそんなことより、今が大事。なかなかに堕落的な考え方だが、どういうわけかこの「自己責任」という言葉が、多くの人たちにとって愛される存在だということは確かだ。
確かに、社会不安が広がって、多くの人間が自分の問題に手一杯になっているときに「自己責任」は増殖していく。
けれど、それ以外にしても、このシンプルな考え方は幅広い人間が理解することのできる、しかもそれっぽいことを言っている。多くの人間が理解できるというのは非常に重要だ。残念ながら知的水準という概念がある通り、物事に対して多角的な見方ができる人と、一元的な見方しかできない人もいる。それは仕方がない話であり、それにおいて「自己責任」は扱いやすいのは間違いない。
勿論「自己責任」は詭弁である。
どれほどの問題が「自己の問題のみである」と判断できるのかを考えるだけで、「自己責任」の脆弱さが露呈することだろう。
例を出してみよう。
窃盗を繰り返す非行少年がいる。彼は酷いネグレクトにあっていて、食べるものを本来用意してくれるはずの親がその役割を果たさず、店先に並んでいる食べ物を空腹の際に見てしまったところから窃盗が始まった。何度も警察の世話になっても、両親が彼に正常な育成をすることはなく、彼は今なお窃盗を繰り返している。
この事例で「自己責任」を考えてみよう。
この問題で自己責任を適用するとなると、「窃盗を繰り返す少年自身」に非があるらしい。しかし彼は未成年である。憲法上においても、ユニセフが規定している子どもの権利条約においても、彼ら未成年には生きる権利を始めとする多くの教育に関する事項が規定されている。
つまり、未成年である彼に責任を適用すること自体が誤りであることがわかる。では、この問題は本人以外の「環境」に起因する問題であり、その時点で「自己責任」は間違っている。
では、これが適用されたのが「未成年だったから」という理由で自己責任が適用しなかったとしてみよう。
実は先程の例には続きがある。
彼の両親は過去の大病により莫大な借金を抱えていた。それによる膨大な支払いを取り付けるため、彼の両親は家にほとんど帰らず共働きをしている。心身ともにすり減った両親は、子どものことにまで気が回らず、自身の健康不調によって少年に正常な教育を提供できなかった。
実は物事の背景にはこんな事情が隠されていた。
この場合であっても、「自己責任」は通用するだろうか?
「過去の大病による借金」について、問題の責任は「病気になってしまった個人」へと還元される。ここでようやく「自己責任」が通用するが、しかしこの「大病」が偶発的に発生する難病などの、「少なくとも本人の生活習慣等によって起こるものではないもの」だった場合、それもまた「自己責任」とは言えなくなる。
遺伝的な疾患であれば彼らの両親へ自己責任が適用されるかもしれない。話を戻して少年が窃盗に走ったのは両親の自己責任で、両親の借金を作ったのは遺伝的に問題のある人間が子どもを作った更にその親の自己責任。
さて、面白いくらい自己責任が細分化されて成立しているようだ。
これほどまで問題を拡大的に考えれば、もはや「自己責任」なんて一要素にまとめることはできないし、個人を責めるべきではないことがわかる。
このような円環的な因果が存在する上で、物事は「問題」として顕在する。それに対して自己責任という一元的な因果関係を持って解決させようなんて、詭弁以外の何物でもない。
物事の背景にまで目を向ける、だからこそ問題は繰り返されないのだ。社会不安に陥っているからこそ、問題は拡大的に考えるべきであろう。
しかし、だからといって問題を周りに押し付けすぎるのも問題である。問題の背景はたしかにあれど、その環境をすべての原因だと言うこともしない。肝心なことは、どれほど自分のことを客体的に捉え、そして良い方向へと変えていくかという営みだ。それをしないで、背景因子に答えを求め続けるのもまた愚かしい行為である。
詭弁というものは、いつも特定の見方に偏ったところから始まるものだと、少し考えるだけでもわかるのに、多くの人が詭弁となってしまうのは、まさに人は本質的に怠惰であると公言しているように思えてならない。それは、当然ながら私もその「怠惰な人間」であることをつけつけてくるようだ。
