もしも自分が小魚だったら、鳥と魚どちらに食われたいかを真剣に考えた
お抱え船長にも、
どうしても苦手な仕事がある。
それがトローリングだった。
広い海の上を走りながら、
魚を探して流していく釣りである。
海の上で、
どこに魚がいるのかを教えてくれるのは、
だいたい鳥だ。
小魚の群れが海面近くまで追い込まれ、
海の表面がザワザワと波立っている。
ナブラである。
鳥が集まっている場所へ近づくと、
上では鳥たちが旋回し、
下では大きな魚が口を開けて待っている。
つまり、
追い込まれた小魚たちは、
空から襲われるか、
海の下から食われるか、
その二択しかない。
いずれにしても詰みである。
なんとも過酷な世界だ。
もっとも、
自分が小魚の立場だったら、
迷わず下を選ぶ。
鳥は嫌だ。
まず鋭いくちばしで突かれ、
そのまま噛まれて、
空高く急上昇し、
連れていかれる。
想像しただけで気持ち悪い。
その点、
大きな魚は丸呑みである。
こちらはこちらで、
“暗闇のウォータースライダー”
みたいな恐怖はあるが、
まだ一瞬で終わる気がする。
どうせ食われるなら、
ひと思いに飲み込まれたい。
しかも、
ほんの僅かな可能性だが、
その大きな魚が人間に釣られることもある。
そして、
釣り上げられた魚の胃袋から、
小魚が出てくる。
運が良ければ、
海へ戻される可能性だってゼロではない。
希望は最後まで捨ててはいけない。
もっとも、
ここまで真剣に“小魚の最期”について考えている時点で、
船長としてどうなのかという気もする。
とにかく僕は、
痛いのが嫌なのである。

話をトローリングに戻そう。
カツオ。
マグロ。
シマアジ。
カンパチ。
こちらとしては、
当然その“大きい方”を狙いたい。
ところが、
問題はそこからだった。
トローリングというのは、
船をゆっくり走らせる。
これがいけない。
スピードが出ている船は、
意外と揺れない。
波の上を走っていくからだ。
しかしトローリングは違う。
自転車を漕ぐくらいの速度で、
波に合わせて上下する。
これが、
船酔い船長にはたまらない。
子供の頃から、
揺れるものは全部苦手だった。
ブランコ。
ハンモック。
乗り物全般。
大人になってからは、
これに“揺れる女心”まで加わった。
人生とは実に過酷である。
トローリングの日、
僕のズボンのポケットには、
いつもコンビニ袋が入っていた。
お守りみたいなものだ。
もっとも、
お客さんの前で船酔いなどできない。
船長が酔っていたら、
乗っている人が不安になる。
だから、
誰にも見られないように済ませる。
長年船に乗っていても、
船酔いには慣れなかった。
ただ、
吐くことには慣れた。
その結果、
「事前に吐いておく」
という荒業を身につけた。
人間、
進化するものである。
(食事中に読んでいる方がいたらごめんなさい。)
それでも不思議なもので、
竿に大物が掛かった瞬間だけは、
酔いが消える。
カツオやマグロが暴れ始めると、
さっきまでの気持ち悪さを忘れて、
みんな少年みたいな顔になる。
もちろん、
僕も例外ではない。
あの瞬間、
海の上にはもう
「追い込む側」と
「追い込まれる側」の
区別などない。
ただ、
生きているものが、
生きているものを
求めているだけだ。
小魚は、
鳥か大きな魚に食われる。
大きな魚は、
さらに大きな魚に食われるか、
運が悪ければ人間に釣られる。
そしてその人間は、
ゆっくりした波に揺られて、
自分の胃の中身を海に返す。
もしかすると、
僕のコマセも、
どこかで小さな命の循環に
少しは加わっていたのかもしれない。
海の上では、
誰もがどこかで
誰かに追い込まれる側にいる。
そう思うと、
吐いた後の苦い後味も、
少しだけマシに感じられた。
希望は、
最後まで捨ててはいけない。
たとえそれが、
ほんのわずかなものであっても。
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