小説『爺と婆のドン・キホーテ』―― 風車は、今日も町内に立っている ――Season1第二話「回覧板は王国からの密書」
朝、玄関の戸が、ことりと鳴った。
爺は味噌汁の椀を持ったまま、ぴたりと動きを止めた。
婆は台所で卵焼きを切っていた。
「なんだい」
「来た」
「誰が」
「密書じゃ」
婆は包丁を置いた。
「また回覧板かい」
爺は椀をそっと置き、忍び足で玄関へ向かった。
忍んでいるつもりだが、膝がぽきぽき鳴っている。
玄関を開けると、そこには茶色いバインダーが置かれていた。
町内会の回覧板である。
表紙には、少し曲がった字でこう書いてあった。
「夏祭り準備のお知らせ」
爺はそれを両手で持ち上げた。
「やはり、王国からの指令じゃ」
「町内会からだよ」
「同じことじゃ」
「だいぶ違うよ」
婆は卵焼きを皿に移した。
爺は食卓へ戻り、回覧板を真ん中に置いた。
味噌汁より、卵焼きより、回覧板が上座である。
婆は眉を寄せた。
「ご飯が冷めるよ」
「国家の危機に、米粒の温度を気にしておれるか」
「町内の夏祭りだよ」
爺はページをめくった。
一枚目。
「夏祭り準備係募集」
二枚目。
「草刈りのお知らせ」
三枚目。
「防犯灯交換について」
四枚目。
「ゴミ出しルール再確認」
爺の顔が、だんだん険しくなった。
婆はお茶をすすりながら見ている。
「どうしたんだい」
「敵が多い」
「敵じゃないよ。全部、お知らせだよ」
「草刈り、防犯、ゴミ出し。これは三方向からの攻撃じゃ」
「生活だよ」
爺は特に、ゴミ出しルールの紙をじっと見つめた。
赤い太字で、
「分別を守りましょう」
と書いてある。
爺は低く言った。
「これは脅しじゃな」
「お願いだよ」
「赤字で書いてある」
「大事だからだよ」
「大事なことを赤く書くのは、昔から戦の前触れじゃ」
「どこの昔だい」
婆は呆れたが、少しだけ笑った。
爺は真剣である。
この男は、セルフレジにも敗北を感じるが、回覧板にも使命を感じる。
爺にとって町内は、ただの町内ではない。
西の角には、よく吠える犬の門番がいる。
東の空き地には、雑草という名の反乱軍がいる。
北の公園には、鳩の評議会が集まる。
南のスーパーには、無人の関所が立っている。
そしてこの家は、小さな城であった。
婆はその城の台所を守っている。
爺は回覧板を読みながら、ふと顔を上げた。
「婆さん」
「なんだい」
「夏祭りの準備係、どう思う」
「やめときな」
「まだ何も言っておらん」
「言う顔をしてる」
爺は少し黙った。
図星だった。
去年、爺は夏祭りの準備で、提灯のひもを結ぼうとして、自分の帽子まで一緒に結んだ。
一昨年は、焼きそば係を手伝おうとして、キャベツを切る前に自分の指に説教した。
その前の年は、盆踊りのやぐらを見上げて、
「あれは城か」
と言った。
婆は全部覚えている。
爺は全部、都合よく忘れている。
「今年こそ、役に立つ」
「去年も言ったよ」
「去年のわしと今年のわしは違う」
「どこが」
「セルフレジに勝った」
「豆腐を買っただけだよ」
爺は胸を張った。
「人は、一度勝てば変わる」
「ずいぶん安い勝利だね」
婆はそう言いながら、回覧板を自分の方へ引き寄せた。
そして、夏祭り準備係の欄を見た。
名前を書く欄がある。
まだ誰も書いていない。
婆の手が少し止まった。
爺はそれを見逃さなかった。
「婆さんも、気になるのか」
「別に」
「気になる顔じゃ」
「気になるというか……」
婆は少しだけ声を落とした。
「最近、若い人も少ないしね」
爺は黙った。
町内は、少しずつ静かになっていた。
昔は夏祭りの前になると、子どもたちが走り回り、提灯を見上げ、太鼓の音に合わせて足をばたつかせていた。
今は、空き家が増えた。
玄関に花の鉢だけが残っている家もある。
回覧板の順番も、いつの間にか短くなった。
爺は、回覧板の角を指でなぞった。
「この密書も、昔より薄くなったな」
婆は何も言わなかった。
爺は、静かに筆ペンを取った。
婆が慌てた。
「ちょっと待ちな」
「待てん」
「字を間違えるよ」
「それは困る」
爺は筆ペンを婆に渡した。
「では、書記官」
「誰が書記官だい」
そう言いながら、婆は名前を書いた。
準備係の欄に、爺と婆の苗字が並んだ。
爺は満足そうにうなずいた。
「これで、王国は救われる」
「腰を痛めない程度にね」
「そこは、王国より大事じゃ」
「分かってるならよろしい」
二人は朝ご飯に戻った。
味噌汁は少し冷めていた。
卵焼きも、少しだけぬるくなっていた。
けれど、食卓の真ん中には回覧板があり、そこには二人の名前が書かれていた。
食後、婆は回覧板を隣の家へ持っていくため、玄関へ向かった。
爺も立ち上がった。
「わしも行く」
「隣だよ」
「密書は一人で運ばせられん」
「はいはい」
二人は並んで外へ出た。
朝の町内は、いつもの町内だった。
犬が吠え、鳩が電線に並び、遠くで誰かが雨戸を開けている。
大きな事件など、どこにもない。
それでも爺の目には、町内のあちこちに見えない風車が回っていた。
婆はそれを止めるふりをして、今日も隣を歩く。
そして回覧板は、無事に隣の家へ渡された。
王国は、ひとまず守られたのである。
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