#シロクマ文芸部 翻訳できない気持ち~短編小説~
小牧幸助さんのお題で書きはじめる企画「猫を飼う」に参加です。
締切は5/6(水)23:59だそうです。よろしくお願いします。
※この物語はフィクションです。
「猫を飼う」契約書には、こう書かれていた。
最期まで看取ること。
ただし、猫の寿命は人間と同じ。
私はその一文を何度も読み返した。
意味は分かる。
だが、すぐには飲み込めなかった。
通常の猫は十数年生きる。
けれどここでいう猫は、人間と同じだけ生きる。
つまり、飼い始めたその日から、別れの日までがすでに決まっているということだった。
それでも、私はペンを置かなかった。
面接でそれを見せられたとき、担当者は特に説明を足さなかった。
「ご理解いただけますか」
ただ、それだけだった。
私は少し考えてから、うなずいた。
理解した、というより、理解したふりをしたのかもしれない。
猫は一匹、すでに机の上にいた。
薄い灰色の毛並みで、目だけが妙に落ち着いている。
こちらを見ているのに、責めるでもなく、試すでもなく、ただ静かに見ていた。
その目を見た瞬間、私はなぜか、逃げられないと思った。
契約書の最後に署名をすると、担当者は小さく礼をした。
そして猫を私に差し出した。
「この子は、あなたと同じくらい生きます」
その言い方が、妙に胸に残った。
同じくらい。
それは長いとも短いとも言えない、あいまいな言葉だった。
けれど、あいまいだからこそ、重かった。
家に連れて帰ると、猫はすぐに部屋を歩き回った。
新しい場所を確かめるように、匂いを嗅ぎ、窓辺に上がり、少しだけ立ち止まる。
その背中を見ながら、私は思った。
この子は、これから何年、何十年、私といるのだろう。
そして、最後の日には、私はこの子を看取るのだ。
それは、契約書の上では当たり前のことだった。
けれど、まだ始まってもいない別れを前提に誰かを抱き上げるのは、思っていたよりずっと怖かった。
夜になると、猫は私の膝の上に乗った。
その重さは、ひどく現実的だった。
あたたかくて、柔らかくて、ここにいる。
私はその体温に、少しだけ安心してしまった。
そして同時に、安心したこと自体が、もうすでに別れに向かっている気がした。
翌日、契約書を読み直した。
何度目かで、私はようやく気づく。
そこに書かれていたのは、寿命の話だけではなかった。
「最期まで看取ること」とは、死を見届けることではなく、
生きているあいだ、目をそらさないことなのだと。
長く一緒にいるというのは、ただ時間を並べることではない。
変わっていく姿を見続けることだ。
若い顔も、老いた目も、眠る速さも、歩く遅さも、すべてを受けとめることだ。
猫はその間ずっと、こちらを見ていた。
まるで、分かっていると言いたげに。
私はノートを開き、初めてこう書いた。
「この子は、私より先に、私の終わり方を知っているのかもしれない」
書いてから、少しだけ笑ってしまった。
あまりにも大げさで、あまりにも本当のことのようだったからだ。
猫は何も言わない。
ただ、静かに目を細めた。
その顔を見て、私は思った。
たとえ寿命が同じでも、同じものを失うわけではない。
先に失うものがある。
後から残るものがある。
そして、そのあいだにだけ生まれるやさしさがある。
契約書は、たぶんそのことを言っていたのだ。
私は猫の背中をそっと撫でる。
毛並みは温かい。
この温度を、いつか必ず思い出す日が来るのだろう。
そのとき私は、きっとまたこの一文を読み返す。
最期まで看取ること。
ただし、猫の寿命は人間と同じ。
そして、その意味をようやく知るのだと思う。
~ 終 ~
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