まるでふざけた映画さ—あの日、僕は会社を辞めて、人生を始めた。
200X年。
関東郊外にある食品工場の、工場長室にて。
「失礼いたします」
「おお、道端か。何か用事かね?」
「会社を辞めさせていただきます」
「……。君は、本社で働きたい部署はあるかね?」
「え?いや、工場長。私は会社を辞めたいのですが……」
「その話はともかく——本社で行きたい部署はあるかね?」
「まあ、将来的には国際部に行きたいという夢を抱いていたことはありますが」
「そうか。分かった」
工場長は静かに頷くと、受話器を取り、どこかへ電話をかけた。
「佐々木部長か。私だ。うむ、お久しぶり。うちの若い奴を、来月からそちらで働かせたいのだが」
「うん、うん……うむ。分かった」
受話器を置く。
そして、僕に向かって言った。
「というわけで、来月から君は本社の国際部で働いてもらう。これからも、よろしく頼むぞ」
「え、いや、あ……はい」
——あれは、夢だったのではないか。
いまだに、そう思う。
けれど僕は、その手品みたいな工場長の好意を、受け取らなかった。
悩んだ末に、会社を辞めたのだ。
辞める直前、工場長からもらったあの技術書も、返せずじまいだった。
当時の僕は、決して引き止められるような優秀な人間ではなかった。
鈍臭くて不器用で、現場ではヘマばかり。
それでも——
英語の技術書を翻訳し、
有志を募って勉強会を開き、
自分なりに、何か役に立てないかともがいていた。
そんなある日、工場長に呼び出された。
てっきり叱られると思った。
違った。
彼は、自分が若い頃から読んできたという、
ボロボロの技術書を差し出した。
「きっとこれからの君の役に立つだろう」
その手は分厚くて、無数のシワが刻まれていた。
なぜ自分に——と思った。
でも本当は、飛び上がるほど嬉しかった。
最後の日に歩いた、工場から下宿までの帰り道のことをたまに思い出す。
変わり映えのしない住宅街。
線路沿いのアスファルトを、ただひたすら歩いた。
バッティングセンターの緑のネットを過ぎると、すぐに黄色い踏切が現れる。
キュルルルルー。
CDが回り始める、あの独特の音がする。
そう、このとき僕はCDウォークマンで、空気公団の「それはまるで」を何度もリピートしていた。
感傷に浸るよりも、
どこか惨めな気持ちを抱きながら。
気づけば、サビの歌詞を何度も口ずさんでいた。
「それはまるでふざけた映画さ」
この日から、
僕の人生は、始まったのだと思っている。
二年後、工場長は亡くなった。
その七年後、僕は会社に戻った。
ああ、まったくふざけた映画さ。
