革命を支持した詩人は、なぜ処刑された
家で聞こえるのはクマゼミで徒歩5分のとこでみんみん蟬が鳴いてた太郎です。
「革命」という言葉に、私たちは何を思い浮かべるでしょうか。
虐げられた民衆の立ち上がり、自由・平等・友愛の旗印、王政という旧弊の打破。確かにフランス革命は、近代市民社会の扉をこじ開けた人類史の金字塔でした。
しかし、歴史のコインには常に暗い裏面が存在します。
「自由」を求めて始まった革命は、ひとたび暴走を始めると、「革命の理念に従わない者は、すべて人間性を否定された敵である」という凄惨な排他主義へと姿を変えていきました。
この理想と狂気の狭間で、ペンを取って暴走する政府を批判し、最後はギロチン(処刑台)の露と消えた一人の詩人がいました。
その男の名は、アンドレ・マリ・シェニエ( 1762–1794)。
彼は決して王政復古を願う反動主義者ではありませんでした。むしろ、人間の自由と尊厳を誰よりも愛し、革命の初期にはその理念に深く共鳴していた知性人でした。それなのになぜ、彼は「自分たちの手で作ったはずの革命」によって殺されなければならなかったのか。
1762年、オスマン帝国支配下のコンスタンティノープル(現イスタンブール)で生まれたアンドレ・シェニエは、フランス人の父とギリシャ人の母を持つ良家の子息でした。
パリで育った彼は、古代ギリシャ・ローマの古典文学に深く傾倒し、美しく洗練されたソネットや抒情詩を次々と発表します。彼が詩の中で描いたのは、権力による抑圧のない人間の純粋な自由と、調和の取れた世界でした。
1789年7月、バスティーユ牢獄の襲撃によって「フランス革命」の火蓋が切って落とされた時、20代後半のシェニエは、この歴史的瞬間を大きな希望をもって迎えました。
特権階級が甘い汁を吸い、民衆が搾取される絶対王政の打破。彼にとって革命とは、古代ギリシャの民主政のような「知性と自由が調和した理想郷」を現実化するための崇高な試みに映っていたのです。
シェニエは新しく結成された「1789年協会」に参加し、ジャーナリストとしても精力的に執筆を開始。言論の自由や立憲君主制の導入を求める論文を発表するなど、革命の「健全な進展」を後押しする知的リーダーの一人でした。
しかし、革命の熱狂は一過性の平和をもたらしませんでした。
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