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美味しい人間  第3話 庭の死角と大きくなった落とし穴

第3話  庭の死角と大きくなった落とし穴


 西暦2006年。

 香織が六歳になり、小学校の入学を間近に控えた春のことだった。

 池本家の庭は、裕福な公務員家庭にふさわしく広く、満子が丹精込めて手入れする花壇の裏側には、外の通りからもリビングからも見えない死角があった。

 最近の香織は、もっぱらその死角で『お砂遊び』に没頭していた。

 六歳になった香織にとって、カエルや昆虫はもう退屈な存在になっていた。

 土をかけても抵抗が弱く、命が消える瞬間の手応えが小さすぎたからだ。

 彼女の脳は、焼肉屋で知ったあの生肉の強烈な旨味と同じように、もっと大きくて、温かくて、強い『命の鼓動』を求めていた。


 ある日の夕方。

 香織は、庭の隅で今までにないほど深く、大きな穴を掘り終えていた。

 子供用のプラスチックのスコップではなく、父親の正信が園芸に使う本物の鉄のシャベルを使って、自分の腰の高さまである立派な落とし穴だ。

 その底に、彼女は台所からこっそり持ち出した「煮干し」と「生肉の切れ端」を少しだけ撒いておいた。

「にゃあ……」

 匂いにつられて、近所をうろついていた痩せた野良猫が、警戒しながらも庭の垣根をくぐり抜けてきた。

 香織は物陰にしゃがみ込み、息を潜める。

 猫は穴の縁に前足をかけ、底に落ちている肉切れに向かって首を伸ばした。

 その瞬間、香織は背後から音もなく忍び寄り、両手で思い切り猫の背中を突き飛ばした。

『フギャッ!』

 短い悲鳴と共に、猫は深い穴の底へ真っ逆さまに落ちた。

 香織の動きには一切の無駄がなかった。

 猫が体勢を立て直し、土の壁を引っ掻いて這い上がろうとするよりも早く、あらかじめ脇に高く積んでおいた土の山を、シャベルを使って一気に穴の中へ突き崩した。

 バサッ!バサバサッ! 『フギャー! シャアァー!』

 土に埋もれながら、猫がパニックを起こして激しく鳴き声を上げる。

 カエルとは比べ物にならないほどの大きな声だ。

 しかし、香織は焦らなかった。

 両親が買い物に出かけていて、家の中が無人であることを完全に計算に入れた上での『遊び』だったからだ。


「しーっ。かくれんぼ、かくれんぼだよ」

 天使のように愛らしい声で囁きながら、香織は無慈悲に土を被せ続ける。

 やがて土の重みが猫の体を完全に押さえつけ、鳴き声はくぐもった呻きに変わり、最後には微かな土の震えだけになった。

 足元から伝わってくる、命が必死に空気を求めてもがく振動。

 それが徐々に弱まり、やがて完全に静寂に包まれた時、香織の背筋にゾクゾクとするような圧倒的な快感が走り抜けた。


「……ふふっ」

 完全に平らになった土の上に立ち、香織は満足げに泥だらけの靴で踏み固めた。

 命のサイズが大きくなればなるほど、それを支配した時の喜びは桁違いに大きくなる。

 この絶対的な法則を、六歳の少女は身をもって理解してしまった。


 その夜、帰宅した満子が庭の隅の土が新しくなっていることに気づいた。

「あら香織、あんなに土を掘り返してどうしたの?」

「うんっ、お母さんのお花のために、ふかふかのベッドをつくってたの!」

 満面の笑みで答える愛娘に、満子は「まあ、なんて優しい子なのかしら」と目を細め、正信も嬉しそうに香織の頭を撫でた。

 足元の深い暗闇の中で、小さな獣が冷たくなっていることなど、愛情に盲目な両親は知る由もない。

『完璧な両親の完璧な娘』という最強の隠れ蓑を纏いながら、香織の好奇心は、さらに大きな獲物へと静かに狙いを定め始めていた。


続く

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