〝絶妙〟のバッドタイミング
ほんのささいなことだが、忘れられないエピソードがある。勤め人時代の30歳頃だったと思う。ずいぶん前のことだから細部は模糊としているが、はっきり覚えている。わずか数秒だが、絶妙のタイミングを経験したことだ。
昼食後、私は会社近くの喫茶店に入った。わずかな客がいるだけだった。若い女性客が、私とは空席のテーブルをひとつ挟んで本を読んでいた。なかなかの顔立ちだった。制服姿だったが、どこの社員なのかはわからない。
私はその頃タバコを吸っていた。食後の一服とコーヒー、そして読書。心地よい昼下がりのひとときだ。
きりのいいところまで読んで顔をあげた。視線の先には彼女がいる。その彼女も、ちょうど同じタイミングで顔をあげ、私を見たところだった。
その瞬間、タバコの煙が目に入った。なんという絶妙のタイミング。煙の入った右目だけがまばたきをした。明らかにウインクだった。
みごとなシンクロナイズだ。これ以上はないだろうというほどの絶妙なタイミングでのウインクだった。
彼女は面食らったろうが、それは私も同じだった。いや、それどころではない。むしろ私の方が動揺していたかもしれない。
偶然居合わせただけの女性にウインク? あり得ないあり得ない、絶対にあり得ない。私にだって、チリほどではあるが一応プライドがある。そんな軽薄な、ドラマみたいなことなんかしない。
自分で言うのも何だけれど、勤め人時代はいつもスーツをかっこよく着こなし、髪もびしっと決めていた。会社の女性たちにはそこそこに好感をもたれていたと思う。だからというわけではないが、ナンパなどはしたことがなかった。見知らぬ女性にウインクなどあり得ない。
で、女性はどうしたか。一瞬きょとんとした表情を浮かべたように見えたが、ふんっ、という軽蔑の表情にも思えた。動揺していた私には判別がつかなかった。
彼女は本へ目を戻して読書を続けたが、もしもドラマだったら、口をヘの字にし、ぷいっという音がするくらいの勢いで横を向き、席を立つというシーンが展開されるだろう。
甘い思い出のような、悲劇のようなできごとだった。いや、そうではないな。彼女はきっと、『素敵な男性にウインクされるなんて、今日はとても素晴らしい日だわ』と思ったに違いない。そうだそうだ、そうに決まってる。そういうことにしよう。めでたしめでたし。
それにしても、彼女のほんとうの心境はどうだったのだろう。
