深海の揺りかご Vol.32
<紹介文・あらすじ>
市立水族館で働く地味な飼育員・田中雄一。口下手で不器用な彼が挑むのは、幻の深海ザメ「リュウキュウカスミザメ」の自然繁殖という前人未到の偉業だった。度重なる失敗、職場の軋轢、家族とのすれ違い―—それでも彼は諦めない。酒と料理に癒やされながら、命と向き合い続ける日々。これは、静かに生きてきた一人の男が、かけがえのない命と出会い、世界を変えるまでの感動の物語。

第四章:かすかな光
第32話:家族の理解、そして後押し

夕方。
水族館の外は、まだざわついていた。
報道陣。
見物人。
だが、その熱は少しずつ変わり始めていた。
“騒ぎ”から“待機”へ。
何かが起こるのを、皆が感じている。
その中に―—田中の家族がいた。
恵子……美咲……健太。
昨日と同じ場所……だが、空気は違う。
健太は、しゃがみこんで地面に何かを書いている。
指でなぞるように。
「サメ……ここでこう動いて……」
水槽を思い出している。
その様子を、美咲が少し離れて見ている。
「好きだね……」
ぶっきらぼうに言う。
健太は顔を上げる。
「……うん」
迷いがない。
「パパみたいになりたい……」
その一言に、美咲は少しだけ言葉を失う。
軽く返せない……視線を逸らす。
水族館を見る……暗い建物……その中で、父がいる。
(あの人……ずっと……ああなんだ)
不器用で……話も下手で……家にもあんまりいなくて。
でも―—
(ずっと、あれやってたんだ……)
“好きなことをやる”……それを、やめずに……続けてきた。
美咲は、小さく息を吐く。
「……バカだよね」
ぽつりと言う。
恵子が、少しだけ笑う。
「……そうね」
否定しない。
「……でも」
一拍。
「かっこいいでしょ?」
美咲は、すぐには答えない。
少しだけ間を置いて。
「……まあね」
小さく言う……その声は、もう拒絶じゃない。
館内。
空気はさらに張り詰めていた。
カスミザメの動きは、限界に近い。
呼吸が浅い。
体がわずかに震える……間違いなく、ピークが近い。
田中は、微動だにしない。
その背中に、野村が声をかける。
「田中さん」
小声。
「……家族、来てます」
一瞬だけ、田中の視線が揺れる。
だが、振り向かない。
「……そうか」
それだけ。
だが―—ほんのわずかに、呼吸が変わる。
坂口が、モニターを見ながら言う。
「外、かなり落ち着いてきてます」
「そうか」
田中は短く返す……だが、その意味は理解している。
“待っている人がいる”……それは、圧にもなる。
だが同時に―—支えにもなる。
そのとき……カスミザメが、大きく体を反らす。
今までで最大の動き……水が揺れる。
全員の神経が集中する。
(……来る!)
確信……もう、逃げ場はない。
仮眠室。
田中は、ほんの短い時間だけ立ち寄る。
(……これで最後だ)
包丁を手に取る。
トマトを切る……塩をひとつまみ……オリーブオイル。
それだけ……シンプル……だが、正確。
一口食べる……酸味……甘み……水分。
すべてがはっきりしている。
(……迷うな)
味が、決まっている……それでいい。
ワインは使わない……今は不要……すべてを削ぎ落とす。
田中雄一は、静かに水を一口飲む……そして、戻る。
水槽の前へ。
そこには―—命と、それを見守るすべての想いが、集まっていた。
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