㊻折口信夫『死者の書』を死ぬまでに読み砕く
冒頭から一説ごとに読み進めています。
今日は『死者の書(中公文庫)』P31から。
㊺の続き
語部に憑依した大津皇子霊から熱烈な冥婚プロポーズを受けた藤原の姫。
この求婚歌を聞いて姫は何を思ったか…
続き↓
歌い了へた姥は、大息をついて、ぐつたりした。其から暫らく、山のそよぎ、川瀬の響きばかりが、耳についた。
お疲れ💦💦
さすがにちょっとお婆には刺激が強すぎたカナ😅💦
そしてキーポイントである「水」の音がずっと二人の背景で流れています。
姥は居ずまいを直して、厳かな声音で、誦り出した。
お婆まだまだ喋る元気あるみたい。ヨカッタ
とぶとりの 飛鳥の都に、日のみ子様のおそば近く侍る尊いおん方。さゝ波の大津の宮に人となり、唐土の学芸に詣り深く、詩も、此国ではじめて作られたは、大友ノ皇子か、其とも此お方か、と申し伝へられる御方。
ある人物の紹介を始めるけど、その尊い名前は絶対に口にしないお婆。畏れ多すぎて口にできないのか、まだその霊が近くにいるのを感じ取っているからか…
・日のみ子様:天武天皇のこと。大津皇子のパパ。
・さゝ波【漣】:近江ノ国滋賀郡。漣の国ともいう。(折口信夫『万葉集辞典』p160)→現在の滋賀県大津市にあった近江大津宮を指す。
・唐土の学芸:中国の学問や教養
・詩(唐歌):漢詩のこと
・大友皇子:天智天皇の愛息子。天智天皇の死後、大友皇子と大海人皇子(のちの天武天皇)は皇位継承をめぐって対立した《壬申の乱》
Q.この人物は誰でしょう?
①飛鳥の都で天武天皇にお仕えしている高貴な人
②近江の大津宮で成長した
③中国の学問や教養を深く身につけ、漢詩をこの国で初めて作ったのは、大友皇子かこの御方かと伝えられている。
↑が当てはまる人物はアノ人しかいない。

定期的に見ないと設定忘れてしまう…
続き
近江の都は離れ、飛鳥の都の再栄えたその頃、あやまちもあやまち。日のみ子に弓引くたくみ、恐しや、企てをなされると言ふ噂が、立ちました。
高天原広野姫尊、おん怒りをお発しになりまして、とうとう池上の堤に引き出して、お討たせになりました。
ここは大津皇子の謀反のくだりを言ってますね。
高天原広野姫尊とは、持統天皇(鸕野讚良)の死後の贈り名(和風諡号)
大津皇子が同じく皇位継承候補であった草壁皇子に対し謀反を企てた疑いをかけられ自害に追い込まれたっていう絶許案件のやつ。
続き↓
其お方がお死にの際に、深く深く思ひこまれた一人のお人がおざりまする。耳面刀自と申す、大織冠のお娘御でおざります。
おお!ここで初めて大津皇子の一目惚れの女性、耳面刀自の素性が明かされました!
大織冠の娘ということは、藤原鎌足の娘!?
この郎女にとっては、ひいひいおじいさん(藤原鎌足)の娘だから、ざっくり言うと遠い大叔母にあたると。

その間柄だと、DNA共有率は約6.25%らしい。
語部の話は続く↓
前から深くお思ひになつて居た、と云ふでもおざりません。唯、此郎女も、大津の宮離れの時に、都へ呼び返されて、寂しい暮しを続けて居られました。等しく大津の宮に愛着をお持ち遊した右の御方が、愈々、磐余の池の草の上で、お命召されると言ふことを聞いて、一目見てなごり惜しみがしたくて、こらへられなくなりました。藤原から池上まで、おひろひでお出でになりました。
そうそう一目惚れなんよね。ご本人からも聞いてますよ
〜この辺りを時系列で再確認〜
667年 中大兄皇子(天智天皇)が飛鳥から近江大津宮へ遷都
668年 天智天皇 即位
671年 天智天皇 死去
672年 壬申の乱(大友皇子 vs. 大海人皇子(天武天皇))
672年 大海人皇子(天武天皇)は近江大津宮から飛鳥へ都を戻す
673年 天武天皇 即位
686年 天武天皇 死去→直後に大津皇子の謀反疑惑事件
686年 大津皇子の死
大津の宮離れというのは672年の壬申の乱後の大津宮→飛鳥宮へ遷都のこと。
大津の宮に愛着をお持ち遊した右の御方というのはもちろん大津皇子のことで、彼は幼少期を大津の宮で過ごし、祖父である天智天皇は大津皇子を大変可愛がり愛されて育ったと言われている。
大津皇子は、「天智天皇の孫であり、天武天皇の子」という二つの王統の間で揺れていた。

そして、耳面刀自は大津皇子が捕まったと聞いて、一目見て名残惜しみがしたくて磐余の池まで【おひろひで(御拾ひで):歩くことを敬って言う言葉】歩いて行った、と。
続き↓
小高い柴の一むらある中から、御様子を窺うて帰らうとなされました。其時ちらりと、かのお人の、最期に近いお目に止まりました。其ひと目が、此世に残る執心となつたのでおざりまする。
ここまでご本人(大津皇子霊)との話と相違ございませんので間違いないようですね。
㊼へ続く。
(2026/09/10記)
