なぜ「安く働く外国人」は許されてきたのか-制度の迷走と、現場で感じる違和感-
おはようございます。秋田を拠点に、介護事業・海外人材の支援に取り組んでいる株式会社あきた創生マネジメントの阿波野です。
「なぜ“安く働く外国人”は許されてきたのか。」
この記事を読んで、私の中に残った違和感は、とてもはっきりしていました。
それは制度の是非や、誰かを批判したいという感情ではありません。
もっと手前にある、“人をどう位置づけてきたのか”という前提への違和感です。
なぜ「安く働く外国人」が許されてきたのか…
日本の外国人労働政策の迷走を招いた"霞が関官僚たちの争い"
外国人労働者は、いつから「調整弁」になったのか
人手が足りない。
でも賃金は上げられない。
働き方を変える余力もない。
制度を根本から見直す覚悟も持てない。
そうした行き詰まりの先で、いつの間にか、こんな図式が出来上がっていったように感じます。
・人手が足りない → 外国人
・賃金を上げられない → 外国人
・制度を変えられない → 外国人
本来向き合うべき
「賃金の低さ」「働き方の歪み」「現場の疲弊」は置き去りにされたまま、
“安くて、文句を言いにくい存在”として期待が集まっていった。
ここに、強い違和感を覚えました。
悪意ではなく、構造の中で許され続けてきたこと
さらに引っかかったのは、これが誰か一人の悪意によって生まれたわけではない、という点です。
官庁同士の縦割り、縄張り意識、
責任の所在が曖昧な制度設計。
その時々の「現実的な落としどころ」を積み重ねた結果として、人の扱われ方だけが、静かに歪んでいった。
「仕方がない」「今はそういう制度だから」
そんな言葉の裏で、人が制度に耐える構図が当たり前になっていったように思います。
現場の日常と、制度の言葉のズレ
介護の現場では、外国人も日本人も、同じように悩み、疲れ、迷いながら働いています。
利用者さんの前に立つとき、国籍で役割が分かれることはありません。
それなのに、制度の言葉は
「労働力」「人数」「受け入れ枠」ばかり。
そこには、生活も感情も、ほとんど見えてこない。
制度が見ているものと、現場が向き合っているものが噛み合っていない。
ここに、私の一番大きな違和感があります。
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