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無条件で愛されているのは子どもではなく親のほうだったりする話

 「無条件の親の愛」という言葉を、私たちは疑いもなく信じている。
 母の日のカードにも、卒業式の答辞にも、そう書いてある。
 だが、少し意地悪に観察してみるといい。

「いい子にしてたらアイス買ってあげる」
「そんな成績じゃ許しません」
「あの子と付き合うのはやめなさい」

 親の愛には、じつはおびただしい数の条件がついている。

 無条件だと信じているのは、条件を出している側だけである。
 では、無条件の愛はどこにあるのか。

 答えは意外なところにある。子どもの側だ。

 子どもは親を選べない。
 怒鳴る親でも、貧しい親でも、約束を破る親でも、赤ん坊は泣きながらその胸にしがみつく。
 虐待を受けた子どもが、それでも親をかばい、引き離されると泣き叫ぶ光景を、児童相談所の職員なら誰でも知っている。
 理屈のうえでは、ひどい親から離れたほうが得なはずだ。それでも離れない。これはもう、条件がどうこうという次元の話ではない。

 精神科医のジョン・ボウルビィは、こうした子どもの行動を「愛着」と名づけた。
 乳児は生後数か月で特定の養育者に強く結びつき、その人が視界から消えるだけでパニックを起こす。愛着は判断ではなく反射であり、教育の結果ではなく生まれつきの装置なのだ。
 なぜそんな装置が備わっているのか。
 答えは進化にある。
 人間の赤ん坊は、哺乳類のなかでも例外的に無力な状態で生まれる。自分で食べられず、歩けず、体温さえ保てない。この状態で「親を吟味してから愛するかどうか決める」個体は、吟味している間に死んだ。
 生き残ったのは、目の前の大人を条件抜きで愛し、しがみついた個体の子孫である。私たちは全員、その子孫だ。
 つまり子どもの愛が無条件なのは、美しいからではない。無条件でなければ生き延びられなかったからだ。

 一方、親のほうはどうか。
 進化生物学者のロバート・トリヴァースは「親の投資」という概念で、親が子に注ぐ資源にはつねに配分の計算がはたらくと指摘した。
 きょうだいの誰にどれだけ手をかけるか、いつ手を離すか。意識していなくても、身体は勘定をしている。
 「無条件」というより、条件が複雑すぎて本人にも見えていない、というほうが正確だろう。
 だから親子の愛は、恐ろしく非対称なのだ。
 親は選び、比べ、条件をつけながら愛する。
 子どもは選べず、比べず、条件なしで愛する。

 無条件で愛されているのは、親のほうなのである。

 この事実に気づくと、二つのことが変わる。

 ひとつは、母親として。
 「無条件に愛せていない自分」を責める必要はまったくない。
 イライラして怒鳴った夜、可愛いと思えなかった朝。それは愛の欠陥ではなく、親という生き物の標準仕様である。そして、あなたがどんなに不完全でも、子どもはすでにあなたを条件抜きで愛してしまっている。
 こちらが完璧になってから愛されるのではない。愛されているところから始まっているのだ。

 もうひとつは、娘として。
 あなたが幼い日に、あの人を無条件で愛していたことを思い出してほしい。母がどんな人であれ、その事実だけは動かない。
 いま関係がこじれていても「私はかつて誰かをこんなふうに愛せた人間だ」という記憶は、あなた自身の財産として残る。
 相手を許すためではなく、自分の器の大きさを知るために。

 親になった人は、たいてい「与える側」だと思っている。
 だが構図は逆だ。
 もっとも純度の高い愛を、私たちは与えているのではなく、受け取っている。しかも受け取る側の資格審査はいっさいない。
 子育ての本には「子どもをたっぷり愛しましょう」と書いてある。
 それはそれで正しい。ただ、ときどき順番を思い出すといい。愛したから愛されるのではなく、すでに愛されているから、安心して不完全でいられるのだと。

 人生で無条件に愛される機会は、そう何度もない。
 その数少ない機会が、自分が親である期間に集中しているというのは、なかなかよくできた話である。


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