「やれやれ」と僕らが言うとき、世界では何が起きているのか
「やれやれ」という言葉について、真剣に考えたことがあるだろうか。たぶんないと思う。僕だってない。
でも先日、駅のホームで電車を一本逃したとき、自分の口から自然にその言葉がこぼれ出て、ふと考え込んでしまったのだ。
やれやれとは、いったい何なのだろう、と。
辞書を引くと、落胆や安堵のときに発する語、とある。なるほど。しかしそれだけでは何かが足りない。
たとえば英語にはこれにぴったり対応する言葉がない。翻訳者たちは昔からこの二音の繰り返しに頭を悩ませてきた。
つまり「やれやれ」は、ある種の発明なのだ。世界の理不尽さと正面衝突しないための、緩衝材としての発明。
考えてみてほしい。
電車を逃したとき、僕らの前にはいくつかの選択肢がある。怒ること。嘆くこと。誰かのせいにすること。スマートフォンで時刻表を呪うこと。でも「やれやれ」を選んだ瞬間、それらの選択肢はすっと脇に退く。
怒りでも諦めでもない、第三の場所に僕らは立っている。
電車は行ってしまった。それは変えられない。でも僕はまだここにいて、次の電車は十二分後に来る。
つまり「やれやれ」とは、敗北宣言ではなく、休戦協定なのだ。
世界よ、君の言い分はわかった。納得はしていないが、受け取りはする。
そういう署名である。
面白いのは、この言葉を口にしたあと、世界が少しだけ違って見えることだ。
ホームの向こうに夕方の光が斜めに差していて、鳩が一羽、何かを真剣についばんでいる。電車を逃さなければ、僕はその鳩を見なかった。鳩のほうは僕のことなんて何とも思っていない。それでいいのだ。世界は僕の都合とは無関係に、きちんと美しく運行している。
人生は、思い通りにならないことの集積でできている。これはもう、どうしようもない事実だ。
雨は降るし、パンは焦げるし、好きな人は別の誰かを好きになる。それらをいちいち正面から受け止めていたら、身がもたない。
だから僕らは「やれやれ」と言う。二音を二回。たったそれだけの呪文で、理不尽は理不尽のまま、少しだけ持ち運びやすい大きさになる。
世界では毎日、無数のやれやれが発せられている。
台所で、改札で、会議室で。それは小さな白旗ではなく、小さな折り合いの旗だ。
今日もどこかで誰かが、その旗を静かに揚げている。
そして十二分後、次の電車はちゃんと来た。
当たり前だ。そういうふうに世界はできている。
