なにものにもならない日としての元三
まだ何者にもならなくていい日、というのは、一年の中でそう何度も巡ってこない。
正月三日目というのは、不思議な日だ。元日の高揚はすでに抜け、二日目のだらけた安心感も少しずつ影を潜める。テレビでは仕事始めの話題が増え、スマートフォンの向こう側では、もう今年の目標を語り始めた人がいる。その一方で、自分の体と心は、まだ布団の延長線上にある。
このズレが、三日目を少し居心地の悪い日にする。
やる気がないわけではない。ただ、前に進く準備が整っていない。それを怠けと呼ぶか、自然な反応と呼ぶかで、新年の景色は大きく変わる。
人はいつから「何者かにならなければならない」と思い込むようになったのだろう。
キャリア、実績、肩書き、数字で測れる成果。そうしたものを積み上げることが、人生を前に進める唯一の方法だと、いつの間にか信じ込まされてきた。
正月の目標設定も、その延長線上にある。
今年は何を達成するのか。どこまで行くのか。何者になるのか。
けれど三日目の朝は、その問いにうまく答えられない。
むしろ、答えが浮かばない自分のほうが、どこか正直に思える。
頭では焦るべきだと分かっているのに、心がついてこない。この違和感は、意志の弱さではない。むしろ、自分の内側が、まだ整っていないことを教えてくれている。
考えてみれば、正月三日目は、社会的には何の役割も求められない日だ。
会社の看板も、家庭内の役割も、少しだけ薄まっている。
だからこそ、何者でもない自分が、いちばんはっきりと姿を現す。
成果も評価もない状態で、ただ存在している自分。それを確認できる時間は、実はとても貴重だ。
何者にもならなくていい、というのは、何もしなくていい、という意味ではない。むしろ逆だ。何者かになる前にしかできないことがある。
立ち止まること。振り返ること。去年やめられなかったことを、まだ手放せずにいる自分を、そのまま認めること。
そこから逃げずに見つめるには、少し余白のある日が必要になる。
三日目は、そのための猶予期間だ。
走り出す直前の助走ではなく、靴紐を結び直す時間に近い。ここで無理に気合を入れると、結び目はたいてい歪む。歪んだまま走り出せば、どこかで必ず足が痛くなる。
だから、この日は問いを一つだけ胸に置いておけばいい。
今年、何者になるか、ではない。今年、何を背負わずにいられるか。その答えが見つからなくても構わない。
考え続けている、という状態そのものが、すでに前進だからだ。
正月三日目の空気は、もうすぐ終わる。
現実は確実に戻ってくる。それでも、この一日だけは、何者にもならなくていい日として、静かに残しておきたい。
焦らず、比べず、決めつけずにいる時間は、あとから振り返ると、人生の中で意外に大きな意味を持っていたりする。
走り出すのは、いつでもできる。
だが、何者でもない自分と、何も決めずに向き合える日は、そう多くない。三日目は、そのことを思い出させてくれる、ささやかな節目なのだ。
