見出し画像

生きるという事

 人は、人生を「物語」として語りたがる。

 あのとき、あの選択をしたから今がある。
 あの出会いがすべてを変えた。
 あるいは、あの失敗がターニングポイントだった──。

 そんなふうに意味づけられた人生は一見、筋が通っているように見える。

 だが、本当にそうだろうか?

 私たちの人生は、実のところ「たまたま」の連続でできている。

「たまたま受けた会社で内定をもらった」
「たまたま誘われた飲み会で今のパートナーに出会った」
「たまたま目にした広告から新しい習慣が始まった」

 こうした偶然の積み重ねを、あとから「意味あるもの」として整えているだけで、最初から「計画通り」だったことなど、ほとんどと言ってない。

 つまり──
 人生は、振り返ればストーリーになるが、進むときは常にカオスなのだ。

 それでも、僕たちは「正しい選択をしたい」と願う。
 後悔しない道を選びたい。
 もっと効率よく、もっと意味ある人生を生きたい。そう願うあまり、選択に迷い、チャンスを逃してしまうこともある。

 だが、その前提こそが間違っている。

 そもそも、正しい選択など存在しない。
 あるのは「選んだあとにどう意味づけるか」だけだ。

 選択とは、事前の判断ではなく、事後の解釈で価値が決まる構造なのだ。

 たとえば、同じ会社に入っても──
 ある人は「希望通りでラッキーだった」と思い、別の人は「こんなはずじゃなかった」と後悔する。

 その違いは、選んだ会社の優劣ではなく、その人が“そこに何を見出したか”にすぎない。

 つまり、選択の価値とは、後から生まれる。
 「たまたま」を「必然」に変える力は、自分の内側にあるのだ。

 偶然に委ねることを、怖れなくていい。
 偶然とは、不安定な運命ではない。
 それは、自分という存在がこの世界に「開かれている」証拠でもある。

 予期せぬ出会い、偶然の誘い、タイミングのズレ、計画外のトラブル。それらすべてが、人生を“物語化できないもの”として、豊かにしてくれる。

 私たちの行動のほとんどは、「なんとなく」で決まっている。
 たまたま目にしたニュース、たまたま届いたLINE、たまたまの体調や気分。その「なんとなく」を完全に排除しようとすることは、人間らしさを手放すことでもある。
 だから、むしろこう考えてみてはどうか。

「私は、たまたまを生きている」

 この視点に立てば、変な完璧主義や過剰な自己責任論から、少しだけ自由になれるはずだ。

 偶然は怖くない。
 それは、人生がまだ「終わっていない」証拠なのだ。


「次に、あなたが“たまたま選ぶかもしれないこと”は何ですか?」


 その問いの先に、また新しい“物語にならない日々”が続いていく。
 それこそが、生きるということの本質なのかもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集