「私の我慢」は誰を救っていたのか
「私が我慢すればいい」
この言葉は、とても便利だ。声を荒げる必要もない。説明する手間もいらない。その場は、たしかに丸く収まる。
多くの人は、この言葉を覚えることで大人になってきた。
空気を壊さない方法として。関係を長持ちさせる技術として。そして、社会で生きるための知恵として。
だが、少し立ち止まって考えてみよう。
その我慢は、本当に「みんな」を救っていたのだろうか。
我慢が発動する場面には、ある共通点がある。
立場が強い人がいる。決定権を持つ人がいる。声の大きい人がいる。
そして、その反対側に、調整役が立っている。
調整役は、計算ができる。
ここで言い返せばどうなるか。波風を立てたら何が失われるか。自分が引けば、どれだけ早く終わるか。
そのすべてが見えてしまうのだ。
だから、我慢する。
それが一番、被害が少ないからだ。
静かなほうが折れてきた、という話だ。
問題はこの「一時的な最適解」が、いつのまにか常態化することにある。
我慢すれば解決すると我慢する人がいる。
こうして、我慢は個人の美徳になり、社会の免罪符になる。
理不尽があっても、表に出ない。不公平があっても、問題にならない。
なぜなら、すでに誰かが飲み込んでいるからだ。
そして、その「誰か」は、だいたい決まっている。
空気を読む人。
やさしい人。
全体を考える人。
声を荒げない人。
ここで、静かな逆転が起きる。
我慢しない人ほど「主張がある人」として扱われ、我慢する人ほど「何も言わない人」として扱われはじめる。
何も言わなかったのではない。
言わずに背負っただけなのに……だ。
我慢が続くと、人は自分の感情が分からなくなる。
怒っていいのか。
悲しんでいいのか。
嫌だと思っていいのか。
哀しい事にその判断基準が、すべて外に移ってしまう。
そしてある日、心や体が止まったときに初めて気づく。
「ああ、私、ずっと無理をしていたんだな」と。
ここで言っておきたい。
あなたの我慢は、間違いではなかった。
その場を壊さないために、必要だった選択だった。
ただし、その選択が永遠に続く前提で、社会が回ってしまったこと。
そこにこそ、本当の問題がある。
我慢は、解決ではない。
延期だ。
しかも、コストを支払うのは、いつも同じ人になる。
