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「名前のない夜」| Bar %   ーフィクションとノンフィクションの間ー

バーの夜が、まだ深くなりきらない時間だった。
扉が静かに開き、年配の女性が一人で入ってくる。

坂城は初めて見る顔だった。

派手ではないが、きちんと整えられた服装。
少しだけよそ行きの鞄。

けれど、誰かと待ち合わせをしている様子はない。

「一人でも、よろしいですか」

女性は、そう言ってから、少しだけ笑った。
カウンターの端の席へ案内する。

女性はメニューをしばらく眺めるが、選ぶというより、何かを思い出しているように見えた。

「お好みを伺ってもよろしいでしょうか」

女性は、少し考えてから言う。
「強くなくて、甘すぎなくて……でも、今日だけは少し、きれいなものを」

坂城は、静かにうなずく。
「かしこまりました」

坂城はボトル棚に目をやり、
いつもより丁寧にパルフェタムールのボトルをカウンターに置いた。

ジンではなく、白ワインでやわらかく仕立てた、ブルームーンを思わせる一杯だった。

女性はグラスを受け取り、しばらく飲まない。
ただ、目の前に置かれた一杯を見ている。

「きれいですね」

「ありがとうございます」
「こういうものを、昔はあまり飲まなかったんです」

坂城は、短く応じる。
「お酒にも、時期がありますから」

女性は小さく笑う。

しばらくして、女性はぽつりぽつりと話し始める。

若い頃は、こういう店に入る勇気がなかったこと。
誰かと一緒なら入れたかもしれないけれど、一人ではとても無理だったこと。
今日は、なぜか一人で来ようと思ったこと。

坂城は詳しく聞かない。

「何かのお祝いですか」とも言わない。
「どなたかのご命日ですか」とも言わない。

ただ、グラスの水滴をそっと拭き、女性の前に新しいコースターを置く。
いつもより少しだけ、丁寧に。

女性は一杯目をゆっくり飲み終える。

二杯目を頼むか迷っている。
「もう少しだけ、ここにいてもいいですか」

「もちろんです」
「飲まなくても?」

「はい。バーには、飲まない時間もございます」

女性は安心したように笑う。

少し沈黙が流れる。
店内には、低い音楽と、氷の触れる音だけがある。

やがて女性は、財布から小さな古い写真を出す。

けれど、坂城に見せるわけではない。
自分だけが見る角度で、少し眺める。

坂城は気づいているが、見ないふりをする。

女性が言う。
「今日はね、何の日でもないんです」

坂城は、静かにグラスを磨きながら聞いている。

「命日でも、誕生日でも、結婚記念日でもないんです。だから、誰にも言えなくて」
坂城は、言葉を急がない。

女性は続ける。
「でも、私には、どうしても忘れられない日で」

誰かを特別だと思った日かもしれない。
別れを決めた日かもしれない。
言いたかった言葉を飲み込んだ日かもしれない。

あるいは、誰かが本当の意味で人生に入ってきた日かもしれない。

坂城は、少しだけ考えてから言う。
「そういう日ほど、長く残るのかもしれませんね」

女性はその言葉を聞いて、泣くでもなく、笑うでもなく、少しだけ目元をやわらかくする。

「そうですね。名前がないから、しまっておけるのかもしれません」

帰り際、会計を済ませ、席を立つ。
「今日は、誰にも言わない記念日なんです」

坂城は深くは聞かず、ただ軽く会釈する。

「では、ここでは、名前のない夜にしておきましょう」

女性は一瞬驚き、それから小さく笑う。
「それが、いちばん助かります」

扉が閉まる。

坂城は、女性が座っていた席のグラスを片づける。
コースターには、丸い水の跡がひとつ残っている。

それは、誰にも説明されないまま、しばらくそこにあった。







Bar % に流れる夜の話を、これからも少しずつ書いていきます。

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