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「昔の呼び方」| Bar %        ーフィクションとノンフィクションの間ー

坂城のことを、今でも「坂城くん」と呼ぶ客がいる。

その夜、その人は開店してほどない、静かな時間にやってきた。

早い時間のバーには、夜更けとは違う静けさがある。
雨ではなかったが、空気の湿った、音のやわらかい夜だった。

扉が開いて、年配の男が一人、ゆっくり入ってくる。
七十を少し過ぎたくらい。

背広はきちんとしているが、若い頃より肩の力が抜けたのが見て取れる。
店の中を見回すでもなく、まっすぐカウンターに来て、いつもの席に座った。

坂城は、グラスを磨いていた手を止めずに、少しだけ笑う。
「ご無沙汰しております」

男は椅子に腰を下ろしながら、軽く鼻を鳴らした。
「そうでもないよ、坂城くん。
 二か月来なかったくらいで大げさだ」

坂城は笑った。

今の店で自分を“くん”付けで呼ぶ客は、この人くらいしかいない。

「二か月あれば、だいぶ季節も変わります」
「君は昔から、そういう言い方をするね」

坂城は磨いていたグラスを置き、男の顔を見た。

「いつものでよろしいですか」
「うん。今日は、あれにしてくれるか。
 ホテルの頃、私がよく飲んでいたやつ」

坂城は一瞬だけ考えて、うなずく。
「かしこまりました」

ボトル棚からウイスキーとリキュール、そして磨き上げたオールドファッションドグラスを取り出す。
氷をひとつ、静かに落とした。

手元だけを見ていても、長く身についた仕事だとわかる動きだった。

男はその間、黙って店の奥を眺めていた。

昔はもっと目つきの鋭い客だった。
ホテル時代、坂城がまだ若かった頃は、少しでもグラスが曇っていれば気づいたし、水の温度が気に入らなければ何も言わず置いて帰るような人だった。

それが今は、少し丸くなった。
いや、丸くなったというより、怒るほど急がなくなったのかもしれない。

坂城は、ホテル時代によくこの客に出していたラスティネイルを静かに置いた。

甘さの奥に、少しだけ古い時間の匂いが残る酒だった。
琥珀色の液体が、やわらかい灯りを受けて揺れる。

男はグラスを見て、小さくうなずいた。

「これだ。
 君、まだ覚えてたか」
「忘れると叱られそうでしたので」

男は吹き出した。
ようやくその顔に、昔にはなかった柔らかいしわが寄る。

「叱ったことなんて、あったかな」
「かなり丁寧に、何度か」
「それは叱ったんじゃない。教育だよ」
「当時の私には、だいぶ効きました」

男はグラスを口に運び、少しだけ目を細めた。
それから、昔のラウンジを思い出すように、しばらく何も言わなかった。

「君も、ちゃんと年を取ったな」

唐突だったが、坂城は驚かなかった。
この人は昔から、こういうことを不意に言う。

「お互いさまです」

男は笑うでもなく、また一口飲んだ。
「いや。
 君は少し、いい年の取り方をしている」

坂城は、手元のクロスをたたみ直した。

こういう言葉には、あまりきれいに返さない方がいい。

「それは、ありがとうございます」
「昔は、もっと尖っていた。
 よく見せようとしていたし、よくやろうともしていた。
 あれはあれで悪くなかったが、今はもう少し……力が抜けたな」

坂城は苦笑した。

「無理がきかなくなっただけかもしれません」
「それを、年の取り方がいいと言うんだよ」

その言い方が少し可笑しくて、坂城は小さく笑った。

店の中には、氷の触れる音だけが残る。
昔、ホテルのバーでこの人に向けて酒を作っていた頃、自分はまだ客の顔色ばかり見ていた。

気に入られること。
失敗しないこと。
ちゃんとして見えること。
そんなものを必死に握っていた気がする。

今はもう少し、客の“その夜”を見るようになった。

男はグラスを置くと、坂城を見た。

「君に会うと、あの頃のホテルを思い出す。
 ああいう場所は、今はずいぶん減ったな」
「店は変わっても、面倒なお客様はだいたい同じです」

男は、今度ははっきり笑った。

「その言い方をするようになったか。
 昔の君なら、絶対に言わなかった」
「成長です」
「老化じゃなくて?」
「そのあたりは、便利に使い分けています」

男は肩を揺らしながら笑い、グラスの残りを飲んだ。
それから席を立つ前に、少しだけ真顔になって言った。

「坂城くん」
「はい」
「私はね、昔の君も嫌いじゃなかったよ。
 でも、今のほうが、酒はうまい」

坂城は一拍置いて、軽く頭を下げた。
「それは、覚えておくには十分すぎる感想です」

男は「そうだろう」とだけ言って立ち上がる。

会計を済ませ、扉の前で一度だけ振り返った。
「また来るよ、坂城くん」
「お待ちしております」

扉が閉まったあとも、しばらく店にはその呼び方が残っていた。

坂城は空いたグラスを下げ、薄く笑う。

昔の呼び方で呼ばれる夜というのは、
少しだけ背筋が伸びて、少しだけ肩の力が抜ける。

そんな夜には、もう一度だけグラスを磨きたくなるのだった。





Bar % に流れる夜の話を、これから少しずつ書いていきます。

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