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「マイウェイには早すぎる」| Bar %  ーフィクションとノンフィクションの間ー

店の扉が開いた。

「こんばんは」
「こんばんは」

坂城は時計へ目をやった。
七時を少し回っている。

一人で来られる日は、たいていこのくらいの時間だった。

「いつものを」
「かしこまりました」

決まった席に腰を下ろし、ネクタイを少し緩める。
その一連の仕草は、長い付き合いの中で見慣れたものだった。

ただ、今日は会社帰りではない。

坂城は氷をグラスへ落とし、静かにハイボールを作る。
カウンターの端には、グロリオサ。

昨日が区切りの日だということは、坂城も知っていた。

来られるかどうかは分からない。
それでも、この方がいらっしゃる日まで、飾っておこうと思っていた。

男性はハイボールを一口飲み、ふっと息をついた。
「昨日で終わったよ」

その一言だけで十分だった。
「長い間、お疲れさまでございました」

六十五歳で定年を迎えた。
会社から慰留も受けたと聞いている。

それでも、自分で一区切りを選んだ。
坂城は、その決断がこの人らしいと思っていた。

この人には、以前から少し憧れていた。

一人で飲む夜も。
部下と来る夜も。
取引先を連れて来る夜も。

肩書きより、人柄で人が集まる。
そんな人だった。

しばらくは仕事とは関係のない話をした。

新しくできたパン屋のこと。
近所の公園の桜のこと。
昔よく通った喫茶店のこと。

二杯目を作ろうとしたときだった。

「こういう日はさ」
男性が少し照れくさそうに笑う。

「シナトラの"マイ・ウェイ"でも流してもらおうかな」

坂城は微笑み、オーディオではなくバックバーへ手を伸ばした。

ワイルドターキーを一本。
続いてタンカレーを静かにカウンターへ置く。

男性が少し首をかしげる。

「珍しいね」
「少し趣向を変えさせてください」

大きな氷をミキシンググラスへ入れる。
ワイルドターキーを注ぎ、タンカレーを重ねる。

静かにステアする。
氷が澄んだ音を立てた。

坂城はグラスを男性の前へ置く。

「フランシス・アルバートです」
「聞いたことがないな」
「シナトラの本名です」

男性は目を丸くし、それから笑った。
「そんなカクテルがあるんだ」

一口飲む。
ゆっくり味わい、もう一口。

「うまい」
その一言に、坂城も小さく笑った。

やがて男性が、グラスを見つめたまま口を開く。
「実はね」

坂城は黙って耳を傾ける。

「若い会社から声を掛けられてる」
坂城は静かにうなずいた。

以前、その話を少しだけ聞いたことがあった。

「経験を貸してほしいって」
少し笑う。

「断る理由はいくらでもあるんだけど」
グラスを指先でゆっくり回す。

「引き受ける理由も、同じくらいある」

坂城はグラスを磨きながら、小さくうなずいた。
「でしたら」

男性が顔を上げる。

「"マイ・ウェイ"は、もう少し先でもよろしいかもしれません」

男性は何も答えなかった。
ただ、フランシス・アルバートをもう一口飲み、静かに笑った。

会計を済ませ、席を立つ。

「少し、お待ちください」
坂城はカウンターの端に飾っていたグロリオサを一本手に取った。

「昨日は、たくさんお花を受け取られたでしょうから、今日は一本だけ」

男性は花を見つめる。

「グロリオサか」
「ご存じでしたか」
「いや、名前だけ」

少し間があった。
「何か意味があるの?」

坂城は少しだけ笑った。
「今日、お渡しするなら、この花だと思いました」

男性は大切そうに受け取り、扉へ向かった。
扉に手をかけ、振り返る。

少し照れくさそうに笑って言った。

「じゃあ、"マイ・ウェイ"は、もう少し先に取っておくよ」








Bar % に流れる夜の話を、これからも少しずつ書いていきます。

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