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「先に帰っていいぞ 」 | Bar %    ーフィクションとノンフィクションの間ー

閉店まで、あと三十分ほどだった。
扉が開き、坂城の店に二人の男性が入ってきた。

一人は三十代半ばを少し過ぎた頃。
坂城の店には、これまでにも何度か顔を見せている。

いつもは一人でふらりと来て、ウイスキーを一、二杯飲んで帰る。

声は明るいが、酒に飲まれることはない。
坂城にとっては、ほどよい距離感で会話のできる常連だった。

その夜、その男性は初めて連れを伴っていた。

「こんばんは。二人、いいですか」
「もちろんです」

坂城が軽く会釈をすると、男性は隣の男を少しだけ顎で示した。
「会社の後輩です。今日は、ちょっと連れてきました」

後輩と呼ばれた男性は、先輩よりほんの少し若く見えた。
ただ、その夜は年齢よりも、疲れのほうが先に目に入った。

「初めまして」
「いらっしゃいませ。」

二人はカウンターの端に並んで座った。

先輩のほうは、いつもの調子でよく話した。

後輩のほうは、相づちは打つが、言葉は少なかった。
一杯目が半分ほど進んだ頃、先輩がふいに言った。

「お前、先に帰っていいぞ」

後輩はグラスを見たまま、小さく笑った。

「いえ、大丈夫です」
「大丈夫そうには見えないけどな」
「顔は、もともとこうです」
「それは、それで心配だ」

坂城はカウンターの中でグラスを拭きながら、二人のやり取りを聞いていた。

上司と部下というより、先輩と後輩。
年齢の差も、言葉の距離も、ちょうどそのくらいに見えた。

先輩は陽気だった。
けれど、その明るさで後輩の沈黙を埋めるように、何度も同じ言葉を繰り返した。

「本当に、先に帰っていいぞ」
「いえ。もう少しだけ」
「明日もあるだろう」
「あります」
「じゃあ帰れ」
「まだ帰りません」

その言い方は、反抗的ではなかった。
むしろ、少しだけ甘えているようにも聞こえた。

先輩はため息をつくように笑い、グラスを持ち上げた。

「面倒くさいやつだな」
「今日はすみません」
「今日だけみたいに言うな、二度目だろ」

後輩が、そこで少しだけ笑った。
坂城は新しい氷を用意しながら、その笑い方に目を留めた。

笑ってはいる。
けれど、どこか無理に口元だけを動かしたように見えた。

しばらくして、会話が途切れた。
店内には、低い音量のジャズと、グラスの中で氷が揺れる音だけが残った。

後輩が、ぽつりと言った。
「帰ると、部屋が広いんです」

先輩は驚かなかった。

「そうか」
「広いというか、静かというか」
「まあ、広い部屋は静かだな」
「ワンルームですけど」
「じゃあ、気のせいだ」

後輩は、今度は少しだけ本当に笑った。

恋人と別れたのだろうか。
それが初めてではないとしても、その静けさに慣れるものではない。

何度目であっても、帰りたくない夜はある。

先輩は、励まさなかった。
説教もしなかった。

ただ、少し間を置いてから言った。

「もう一杯だけ飲んだら帰れ」
「はい」
「先に帰ってもいいぞ」
「まだ言うんですか」
「言っとかないと、俺が落ち着かないんだよ」

後輩は、今度こそ声を出して笑った。

先輩が坂城のほうを向いた。
「マスター、最後にもう一杯だけ。」

坂城は少しだけ考え、背後の棚へ目を移した。

「よろしければ、アベラワーはいかがでしょう」
「アベラワーですか」
「ええ。今日は、少し薄めの水割りで」

後輩が首をかしげた。
「どういうお酒なんですか」

坂城はボトルを手に取り、ラベルを静かに二人へ向けた。

「スコットランドのスペイサイドにある蒸留所のウイスキーです。過去に大きな火災を2度も経験していますが、そのたびに立ち上がって、今も続いています」

後輩は、少し黙った。
先輩はその横顔を見ず、グラスの中の氷を眺めていた。

坂城は続けすぎず、そこで言葉を止めた。

グラスに氷を入れ、アベラワーを注ぐ。

先輩の一杯は、いつも通りに。
後輩の一杯は、少しだけ軽く。

水を加えると、琥珀色がやわらかくほどけた。

「二回くらいでは、終わらないものもあるんですね」
後輩が、小さく言った。

「お前の話はしてないぞ」
「分かってます」
「ウイスキーの話だ」
「分かってますって」

後輩はそう言って、少しだけ笑った。

坂城は二つのグラスを静かに置いた。
「お待たせしました」

二人はしばらく、黙ってグラスを傾けた。

先輩は、いつものように明るく話題を探している。
けれど、無理に盛り上げようとはしなかった。

後輩も、ぽつりぽつりと返した。

仕事の話。
どうでもいい失敗の話。
先輩が昔、同じように落ち込んでいた時の話。

それは慰めというより、時間を少しだけ先に進めるための会話に聞こえた。

やがて閉店の時間が近づき、先輩が伝票に手を伸ばした。

「今日は出す」
「いえ、自分の分は払います」
「こういう時くらい払わせろ」

「では、次は自分が」
「お前が元気な時にな」

後輩は黙って、少しだけ頭を下げた。

それを見て、坂城が口元を緩めた。
「やさしい先輩は、案外めんどうですね」

先輩が何か言い返そうとした、その前に。

後輩が、静かに言った。
「でも、助かってます」

先輩の手が、伝票の上で止まった。

「……そういうことを、本人の前で言うな」
「すみません」
「謝るなら言うな」

後輩は小さく笑った。
坂城も、何も言わずに会計をした。

少し間が空いてから、先輩が坂城に向かって言った。

「マスター」
「はい」
「次にこいつを連れてくる時は、もう少し面倒じゃない日にします」

坂城は、穏やかに首を振った。
「どのような夜でも、お待ちしてます」

先輩は少し黙り、それから照れくさそうに笑った。
「……連れてきて、正解でした」

後輩が、少し驚いた顔で先輩を見た。
先輩はそれをごまかすように席を立った。

「ほら、帰るぞ」
「先に帰っていいんじゃなかったんですか」
「もう閉店だ」
「はい」

二人が扉へ向かう。
出ていく直前、先輩はまた振り返って坂城に軽く頭を下げた。

「また来ます」
「お待ちしております」

扉が静かに閉まる。

カウンターには、少しだけ距離を置いて並んだ二つのグラスが残っていた。
坂城はそれを片づけながら思った。

帰れと言いながら、帰らせない人がいる。
帰りますと言わずに、そばにいる人もいる。

一度目でも、二度目でも。
人は案外、何度でも同じように傷つく。

それでも、グラスを空ける頃には、少しだけ立ち上がれる夜がある。







Bar % に流れる夜の話を、これからも少しずつ書いていきます。

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