「印のない一本」| Bar % ーフィクションとノンフィクションの間ー
マンチーノ・ロッソ。
男性には、大きな氷をひとつ浮かべたロック。
女性には、ソーダで割ったものを細身のグラスで。
一杯目までは決まっている。
以前、坂城が勧めて以来、それが二人の食後の始まりになっていた。
月に二度ほど、木曜日の夜になると訪れる二人は、
食事を終え、九時を少し回った頃に扉を開けいつもの席に座る。
男性は仕事柄、夜の予定も多いようだった。
それでも、この木曜日だけは大切にしているように見えた。
「やっぱり最初はこれですね」
女性が立ちのぼる泡を眺めながら言う。
男性もロックグラスを軽く持ち上げた。
「これを飲むと、食事が終わった気がするね」
「そう言っていただけると、食後酒としては合格ですね」
坂城がそう返すと、二人は顔を見合わせて笑った。

一杯目を飲み終える頃、坂城は一冊のメニューを差し出す。
最初のページには、スコッチだけが並んでいる。
「全部飲んでみたいんです」
「全部ですか」
「全部です」
「それは少し時間がかかりそうですね」
「急ぐ理由もありませんから」
男性がそう言うと、女性も頷いた。
二人はアルファベット順に飲み進めることにした。
それぞれ一杯ずつ選び、少しずつ交換しながら味を比べる。
「こっちのほうが香りは好きかも」
「でも、余韻はこっちかな」
「ああ、それは分かる」
正解を決めるわけではない。
ただ、同じ酒を飲みながら、同じ時間を過ごすことを楽しんでいた。
飲み終えるたび、坂城はメニューの横へ鉛筆で小さな印を付ける。
最初は確認のためだった。
やがて、その一冊だけは二人のためのメニューになっていった。
「今日は俺の勝ちだな」
男性がグラスを差し出す。
女性は一口だけ口に含み、少し考えた。
「……今日は認めます」
「でしょ」
坂城も思わず笑う。
「今日は、こちらですね」
女性のグラスには、まだ少しだけ残っていた。
男性が何気なく手を伸ばす。
「もったいない」
そう言って飲み干す。
「また飲んだ」
女性が呆れたように笑う。
「最後まで飲む人が勝ちだから」
「いつ決まったんですか」
「今」
「ずるいですね」
三人とも笑った。
そんな木曜日の扉が閉まるたび、メニューの印だけが静かに増えていった。
ある木曜日だった。
二杯目を選んでいる途中で、男性の携帯電話が震えた。
画面を見た男性は、小さく息をつく。
「ごめん、ちょっとだけ」
そう言って席を立ち、入口の近くで短く電話を済ませた。
戻ってくると、少し困ったように笑う。
「親父です」
少し肩をすくめた。
「最近、うるさくて」
女性も笑った。
けれど、その笑顔はいつもより少しだけ短かった。
坂城は、何も言わなかった。
その夜も二人は、いつものように互いのグラスを少しずつ交換しながら飲み、いつものように店をあとにした。
それからも二人の木曜日に、メニューの印は少しずつ増えていった。
「あと一本だね」
男性がメニューを見て笑う。
女性も覗き込む。
「じゃあ、次で終わりですね」
「終わったら、また最初から」
「また一年ですね」
「それも悪くない」
女性は笑った。
その笑顔に、坂城はまた、ほんのわずかな違和感を覚えた。
言葉にできるほどではない。
ただ、長くホテルのバーに立つうちに身についた感覚が、小さく引っかかった。
その夜も、二人はいつもと変わらず店を出ていった。
それから、二人は来なくなった。
木曜日になるたび、坂城は二人のためのメニューをいつもの場所へ置いた。
けれど、扉は開かなかった。
二度目の木曜日。
また木曜日。
メニューだけが、元の場所へ戻っていった。
二か月ほど経った頃だった。
まだ夜には少し早い時間の木曜日に、扉が開く。

「こんばんは」
立っていたのはその女性一人だった。
「いらっしゃいませ」
坂城は一瞬だけ、その後ろへ目を向ける。
誰もいない。
女性はいつもの席へ腰を下ろした。
坂城はマンチーノへ手を伸ばす。
ボトルに触れる直前、その手が止まる。
静かに下ろした。
「……いつもので、よろしいですか」
女性は小さく頷く。
「お願いします」
細かな泡が静かに立ちのぼる。
男性の前に置くはずだったロックグラスは、取り出さなかった。
仕事の話。
季節の話。
いつもの木曜日と変わらない話。
女性は穏やかに笑い、坂城も静かに応じる。
ただ、そのたびに女性の視線は何度か隣の席へ流れた。
誰も座っていない席へ。
マンチーノが半分ほどになった頃だった。
「結婚することになりました」
坂城は顔を上げる。
女性は少しだけ笑った。
「彼が」
静かな時間が流れる。
「薄々は分かっていたんです」
その一言だけで十分だった。
あの日の電話。
短かった笑顔。
最後の木曜日。
坂城の中で、ばらばらだった景色が一つにつながった。
女性はグラスを置いた。
「メニュー、いただけますか」
坂城は、いつもの場所に置いてあったメニューを差し出す。
女性は最初のページを開き、小さな印を一つひとつ指でたどっていく。
そして、最後に止まった。
印のない名前。
ホワイト&マッカイ。
女性は小さく笑った。
「ここまででしたね」
「そうですね」
それ以上の言葉はでなかった。
「お願いします」
バックバーへ手を伸ばす。
ラベルに指先で触れて止まる。
ホワイト&マッカイを静かに下ろす。
丸い氷を選び、ロックグラスへ落とす。
琥珀色の液体が静かに流れ、氷が小さく鳴いた。
「お待たせいたしました」
女性は小さく頷き、グラスを持ち上げる。
ゆっくりと口元へ運び、一口。
その瞬間だった。
張りつめていたものが、ほどけるように涙になった。
坂城はバックバーに向き、磨き終えていたグラスをもう一度手に取る。
ただ静かに、クロスを動かし続けた。
やがて女性は立ち上がる。
「最後まで付き合ってくださって、ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
女性は小さく一礼し、店をあとにした。
扉が静かに閉まる。
カウンターには、一冊のメニューが残されていた。
坂城は鉛筆を手に取る。
ホワイト&マッカイを見る。
そのまま、しばらく動かなかった。

Bar % に流れる夜の話を、これからも少しずつ書いていきます。
