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老いない文化

今回は、現代文化について考えたことを書こうと思います。
とはいえ、自分が生きている範囲(時間)内に留めたいので、せいぜいが限られた時間におけるドメスティックな文章になります。

要約(短歌)
とりあえず短歌に要約してみたので、ちょっと書いてから進めます。
題名は本稿の主題と同じです。

本邦
それ文化において
志向もっぱら若人に帰するところあれば
まなざしあくまで若人

若者文化に遡上する大人たち
本邦においておよそ若者を文化の中心に据えているところがあって、老若男女の中でも「老」を担う人たちが「若」にプライオリティを置いたり、あるいはその集団性への憧憬や回帰願望を発して、その努力にあふれていることは、基本的な文化の性向としてあります。
進んで「年を取りたい」大人より、より「若く見られたい」大人の方が大多数といえばわかりやすいでしょうか。
これは「世界は血気(未来)ある若い人が作り上げていく」という普遍に基づくもので、本邦に限りませんが、とりわけそのむきがいびつに拡張している感じはしています。
死を恐れるというより、もっと人工的といえばいいのでしょうか。
いわば、若さにプライオリティを置き、置き去りになる恐怖が現代文化を駆動している。
とすればいきおい、日々のありよう、過ごし方にも警戒するところで、ここは少しずつ深めていきたいところです。

若者文化とベクトル
そんな塩梅ですから、ビジネスシーン、とりわけエンターテインメントに限定しても、発信は常に下流、若い人へ向けられるものであって、より若い人への親炙、遡及が基本的というか、原則になっています。
いわば、若い人から大人への文化的手触りなどは、とりわけ本邦の(現代)文化においてはおよそ前置きしないところで、これほど高齢化がキャッチしている現代でさえ、シルバーエンターテインメントが相対的に成立し得ない理由なのかもしれません。
そういう底流がありますから、高齢化が進展しようと、その受容者が客席に留まっていようと、発信と受容の本流を若人に定めていて、ここを覆すことは相当困難である以上、やはり本流を逸れた亜流のシェア拡大がせいぜいなのでしょう。

生者の行進
文化、文明論以前に基本的なことです。
現代社会を歴史のタイムラインにおける科学技術の頂点と据え置きしても、やはり生死の別は相克どころか、そのイメージさえ持つことは困難ですから、技術的点でも、当面(あるいは永遠に)は生者が文化、文明の首座たるところは間違ないでしょう。
もちろん、(先達の)遺産としての発露はありますが、新規、オニューの御札に感じる魅力を紐解かずとも、タイムラインの先端、最前線に生きるということは、明確に肯定されるわけで、そこを否定する論調やムーブメントは、やはりどこまでいっても亜流、傍流なのでしょう。
逆転するときは、基本的に想像しなくて良いことかもしれません。
コペルニクス転回などとは次元の違う話ですから。
生者の定義はシンプルで、死者に相対する存在として、より死から遠い年つきとみればいいと思います。

生きる者のみが前に進む、当たり前のことかもしれませんが、俯瞰すれば行進しているように見えるでしょうし、それは停止も逆走もない世界にも見えるでしょう。

ノスタルジー
文化の重層的傾斜は常に若い人に向かうもので、その担い手が、大人の、いわば過去の所産を取り上げるのは、基本的に大きな動力のむきから外れる行為になってしまい、せいぜいが大人へのおもねり、リップサービスにフレーミングするのは仕方のないことかもしれません。
それは長幼の序の発露、文化的背景などとは相容れないもので、ただビジネス上の要請(ノスタルジー)として理解するしか仕方のないもので、やらないならまずやらない方がいいことでもあります。
むしろ、そこに違和感をみて、商売や金のにおいを鼻先に置けるなら、それこそ文化の担い手として充分かもしれませんし、そのセンスがあればここまでの書いたことは特に意味を持ちません。

まとめ
長くなったので要約します。
短歌と著復しますが、こちらは文語ということで。

新しい文化はいつだって生きている源泉になる。
せっかく生きているならメーンストリートを歩け!

それでは。

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