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タイ北部の旅 – その6−3 (バンコク 〜 シリラート医学博物館 / ビムックスターン博物館 その 2)

なんとかふたつ目の展示スペースに辿り着く

 前回の投稿で、シリラート医学博物館のひとつ目の展示を見終えた後に、ふたつ目の展示スペース()に向かおうとするも迷ってしまい、そのとき偶然出会った日本語が完璧に通じる看護師さんの助けを借りながらそこを探すも、ひとつ目の展示スペースに戻ってしまうところまで書いた。
 それは大学に入学したての頃、次の授業が開かれる教室が、少し離れたところにあって、まだ右も左も分からない新入生にとっては、教室を探すという行為自体が冒険になっていたのと同じ体験だったのだろう。

 その後、僕は真剣に地図と格闘し、今時めずらしくもA4の簡易地図にボールペンで建物の特徴を書き込みを入れながら歩き、なんとか次の展示スペースにたどり着いた。でも、こんな投稿をするんだったら、その殴り書き入りの地図を写真に撮っておくんだったと、今は少し後悔している。
 ただ言いたいことを完結に述べると、「もし、ここに行こうと考えているなら、ぜったいに道に迷うから覚悟して行った方が良いですよ」ということだけだ。

 ここは正式名称 “コンドン解剖学博物館” という名前らしい

シリラート医学博物館のふたつ目の展示施設(コンドン解剖学博物館)
展示室に続く階段と廊下


マヒドン大学とシリラート病院

 前回の投稿で、日本語を完璧に使いこなす、親切で天使(看護師)の内容が濃くなりすぎて忘れていたが、ここで簡単にマヒドン大学とシリラート病院について紹介する。

 マヒドン大学の名前の由来になった、マヒドン王子は1891年1月1日に国王ラーマ5世の子息として産まれる。幼少時、王子はドイツ、英国で教育を受け、英国では兵役も経験している。また王子としては、12歳の頃にソンクラーン王子の称号も受けている。
 この感覚は、現代の日本人にはあまり馴染みは無いだろう。だが、今でも英国の王族はデューク・オブ・ケンブリッジ(ケンブリッジ卿)のように、国内の主要都市名を自身の称号として使用している。日本も、江戸時代までの封建制の時代には似たような風習だっただろう。
 そして1916年に、ヨーロッパでの留学を終えてタイへ帰国したマヒドン王子は、海軍将校として軍務に就くが、タイで医療が受けられずにシリラート病院から追い出される病人達を目の当たりにし、心を痛められる。これが彼と医療との関わりのはじまりである。
 それからのマヒドン王子は、シリラート病院で医療に従事するが、シリラート病院の院長から「医者でもないのに医療行為を行うな」と叱責される。まぁその通りだ。医者でも無いのに、病院で医療を行われては、病院の医者にとっても、患者にとってもたまったものではない。
 しかし、王子はそこですぐに諦めることはなかった。その後の彼はハーバード大学に留学して本当の医者となり、シリラート病院で自身の学んだ医療を教えることになったのだ。
「医者じゃなければダメなのか? じゃぁ医者になれば良いんだ」と考えて、サクッと留学できるところに、王族らしい、良い意味での行動力の高さが窺える。実際にはいろいろと問題があったのかも知れないが、そのあたりの苦労は僕には分からない。また、マヒドン王子はタイ王族の中では王位継承権が下位に位置していた。そのため、どこまで行っても彼が王になることは無いと考えられていたのだろう。その状況が、彼の行動の自由に影響しているのかもしれない。
 しかし、王子の長兄であるラーマ6世には男子のご子息がおらず、また次兄のラーマ7世には子息すら居なかったため、マヒドン王子の子息(2男1女)から兄がラーマ8世、そして弟が前国王のラーマ9世を継承することとなった。
 このあたりは現在の日本も同じ問題を抱えており、ひょっとしたらタイの例を参考にできるのではないか、と僕は思う。
 マヒドン王子の後半生は “留学して新しい分野を習得する” 、その後タイに帰って “学んだことを普及させる” というループを繰り返すが、1929年にタイへの帰国途中に38歳で病死する。その死には暗殺説も考えられていたが、王位を継がなさそうな三男の彼を暗殺する必要がどこにあったのだろう?

 一方マヒドン大学については、その前身は、シリラート医学校というタイ初の医学校がルーツとなっている。そして、この医学校はチュラーロンコーン大学という現在タイで最も世界大学ランキングが高い大学に統合されるも、すぐにシリラート医学大学として独立する。さらにシリラート医学大学は、どんどんと専門学部を増やしていき、1969年にタイ医療の父と称され、最先端だった西洋医療の普及に勤めたマヒドン王子の功績を讃えて、マヒドン大学と改称する。
 現在、マヒドン大学はチュラーロンコーン大学、タマサート大学と並び、タイでは TOP3 大学のひとつとして高く評価されている。

参考:
1. Prince Mahidol Award Foundation, “A Complete Biography of Prince Mahidol
2. Wikipedia のページ色々


コンドン解剖学博物館

 さて、お目当てのふたつ目の展示スペースについて。こちらの博物館は、ひとつ目の展示スペースが整備されたアトラクション然としているのと異なり(それでも目黒寄生虫館のように訪れる人を選ぶタイプの雰囲気を全面に醸し出していた)、もっと大学医学部の解剖学教室という感じの様相(医学部の施設に足を踏みいれたことはないので偏見だが)で、入り口のチケット・カウンターもオープンの机に、明らかにバイトっぽいお姉さんが二人座っているだけだった。
 こちらも展示も写真撮影は禁止されていたが、医者でも無い自分にとっては、それらの写真が撮れなくてもさほど残念だとは思わない。
 そして、展示内容は、身体を酸かアルカリで溶かしたのか、全神経系のホルマリン漬けや、奇形も損傷も無い通常の骨格標本など、名前通りの解剖学標本だった。そのため、こちらはそれほどグロテスクではなく、気分を陰鬱とさせるようなものではなかった。と言っても、ひとつ目の博物館と比べて随分とマシというだけであって、一般的には十分に閲覧注意の内容である。


ビムックスターン博物館

 最後のビムックスターン博物館はすんなり見つかった。
 それは三つの博物館の中では一番大きく、またシリラート病院の角、川と川の合流点に置かれていて、迷いようの無い場所だったからだ。
 ここは、厳密にはタイの医学史を紹介するとともに、そ例外の風習なども紹介する施設だ。なお、ここはかつてタイ国鉄のトンブリ駅の駅舎があったところで、その開業に際して行われた発掘調査で出てきた大型の河川貿易船などの遺物も展示されている。3つのシリラート医学博物館の中では最も整理され、子供にも安心して観せることができる施設なのである。
 僕の正直な感想は、普通に「ヘ〜、そうなんだ」と、ためになる が、わざわざ海外まで来て観るようなもんでもないかと思う、立派な展示だった。小中学校の社会科見学で来る場所としては、大変良い場所だ。

ビムックスターン博物館の位置
ビムックスターン博物館周辺の風景
ビムックスターン博物館の外観とエントランス
ビムックスターン博物館の文化的展示


ボート・クルーズ

 シリラート医学博物館を堪能した後は、博物館前のトンブリ駅さん橋からボートに乗って、チャオプラヤ河を下ることにした。
 タイではボートがまだまだ重要な移動手段である。だから、わざわざ高い代金を払って観光フェリーに乗らなくても、と言ってもそれだって大した金額ではないのだけど、市民の足用ボートに乗ると、数十バーツという格安の値段でクルーズを楽しむことができる。こうして僕は河を下りながら、ワット・アルンや高層ビル群など、うつろいゆくバンコクの風景を楽しんだ。
 そして、アジアティーク・バンコクというお台場のような大型ショッピングモールで降りた。

ボートから観るチャオプラヤ河からの風景
 - 右上の仏塔は前回はなしに出たワット・アルンの仏塔

つづく

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