『生きてることは素晴らしい』と決めつける社会が大嫌い
またXがロックされた。
「無痛で〇ねる方法ないかな」
という一言がダメだったらしい。
なんでも、自傷や自殺を助長すると判定されたようだ。リスカ匂わせやODに関する具体的なポストは無傷で、私のなんとなくの願望がアウトになったのは腹が立つが、まぁAIによる文脈判定でアウトだったんだろうなと判断した。
しかしそれ以上に腹が立つのは
生にばかりえこひいきする社会の風潮である。
生は無条件に素晴らしい?
社会のルールには、生きてること、生きることは素晴らしいという下地がある。
とりあえず生き、働き、時間と金を消費しながら生きることが社会の推奨行為とされている。古い社会では、正社員になって勤めあげて結婚して子を成し、家を買って云々が社会のレールとして扱われていたが、根底にはもっと病的な『生への無条件肯定』という不文律がある。
この社会は私たちにとりあえず生きることを推奨する。明言されることは――例えば命に関するキャッチコピーなどを除けば――あまりないが、暗に命を継続させるための補助輪が社会には整備されている。危険な場所には柵が設置され、自殺者を救えば手放しで賞賛され、生きることを美化した作品がやたらと世に出てくる。
それ自体は好きにしたらいいと思う。
生は素晴らしいというのも立派な価値観のひとつだからだ。
私が嫌なのは、死に対する過剰な規制と、生の強要だ。
死は悪なのか?
今回のXアカウントロックが象徴的だが、この社会は自らの意思による死を弾圧する。
SNSで死を具体的に扱うと規制がかかる。
AIも自死を匂わせただけで建前の自殺防止を唱えてくる。
死を匂わせると人は怪訝な顔をし、狂言扱いし、やたらと生の副産物を並べて励ましてくる。その副産物は誰もが得られるモノではないのにも関わらず。
生を無条件肯定する裏では、死への無条件の弾圧が行われている。
生きることへの社会圧
確かに、雑な仕分けをすれば
生>>>>>>>>死
なのだろう。
生きていることは素晴らしく、死は辛く悲しく、身を捩ってでも避けるべきなんだろう。確かに動物も、何とかして命をつなごうと動く。
しかし、人間の脳髄と社会はその図式を適用するには複雑化しすぎた。家庭環境でつまずいたり、社会に折られたり、愛憎の末に希望を失ったりして、生と死の価値が逆転する人は少なくない。
代表的なのは、精神疾患を患った人の自殺願望だ。彼らは紆余曲折あって精神を病み、未来を憂いてたびたび死への憧れを呟く。
彼ら(私も)と社会一般の死生観は色が違う。生は輝きに溢れた色彩であり、死は澱んだ汚い色という普遍的な価値観と、弾かれ者が見る色はまるで違う。生の色合いだって、死に負けないくらいグロテスクだ。
その価値観もまた社会の副産物なのだが、社会はその辺りにはどうも無関心らしい。
結果として生まれるのは、建前に過ぎない死生観を強要する社会だ。生が無闇やたらと賞賛され、不幸な立場でも延命することが尊ばれ、死は口にするだけでもやんわりと否定される。
社会はとりあえず生きることを推奨する。どんなに不幸でも、先に良いことがないことをどれだけ色濃く予感していても、とりあえず生きていれば良いことがあるかもしれないと、当人の気持ちもはばからずに、不確定要素に満ちた生の土俵に放り出すのだ。
その一方で、死は衝動であっても冷静な計算の先であっても、何年思いを引きずろうとも否定する。どうやら死ぬ意思は気の迷いや気狂いの戯言としか判断されないらしい。
生を肯定する社会は、生に絶望した人たちに延命の圧力を加える。
理由はよくわからない。
マジョリティへの配慮なのか、社会という器を維持する頭数を求めているのか。
仮に後者だとしたら、常に薄ら死にたい私はわずかな油を搾り取られるゴマか菜種のように思える。生存によって社会に還元される何かのために、無理やり重圧を加えられている。泣く泣く導き出した死への欲求も、生きていても良いことが無いという確信もすり潰され、生命維持のための消費活動を強いられる。
私みたいな低所得で能力も低くて納税額も低い無能男は存在が無駄だと、しばしば過激な人たちから後ろ指をさされるわけだが、一方では命とやらを過保護に尊重される。
板挟みの地獄とはこのことだが、それでも社会はとりあえず生きろとの判断らしい。
永遠に続く生の不戦勝
自殺者への当たりは強い。
惜しまれる著名人やファンがいる人物はその限りでは無いが、たいていは無視されるし、電車のダイヤを乱そうものなら文字通り死体蹴りだ。
えこひいきはAIにも実装済み
そもそも、自殺という行為には勇気がいる。
死ぬまでの痛みがよくピックアップされるが、この世の誰も知らない死後の世界に自ら飛び込むのだから、相当な勇気か思い切りがないと実行できないだろう。
なお、自殺には勇気がいるという文章をAIに投げかけたところ、
『自殺=勇気ある行為と読めて、美化に見えやすい』
と警告された。
おもしろい言い分だ。
生きることには平気で勇気という言葉を使うのに、死ぬ勇気と書いた途端に危険思想と判断されるらしい。
私は自殺が必ずしも正しいとは言っていない。
恐怖を越えて行動することに勇気という言葉を使っただけだ。
それすら許されないところに、生と死に対する社会の扱いの差がよく表れていると感じた。
今回はChatGPTだったが、こういうAIにはすでにマジョリティの価値観や安全装置が実装されている。だから、死を匂わせただけで糞の役にも立たない建前と相談センターの連絡先を提示するようになっている。
死人に口なし、ゆえに勝てない
話を戻そう。
この世には、自殺に成功した人の意見は存在しない。自殺など考えない人、自殺を考えても実行できない人、実行して生き延びた人しかこの世界にはいないからだ。
この世界には生きている人しかいない。
だから、圧倒的マジョリティによる生の肯定が行われ、普遍的価値観にまで成り上がっている。
生きることと死ぬこと、どちらが苦痛かを測ることはできない。生きる方が苦しいかもしれないのに、死後が観測不能なために生の不戦勝が続いている。
社会の生存圧は改善されない
AIにやんわりと自殺防止をする理由を何度も問いかけたところ、最終的には『死は不可逆だから』という返事がきた。生きていれば良いことがあった場合でも、死ねば選び直すことはできない。そういう理屈で死の選択を否定しているらしい。
その理屈で言えば産まれることも不可逆で、なおかつ当人には選択する自由すらないわけだが、その辺の理屈をAIに投げかけてもその通りだとお茶を濁された次第だ。まぁ、AIも人がつくっているのだから、社会圧に適応した対応をしてくるのも当然のことだろう。死について語りたい側としては迷惑でしかないのだが、社会からの余計なお世話は避けようがない。
お手上げだ。
こちらには反論材料がない。
本物のイタコがいて、死者のその後を語ってくれるなら募金したいところだが、生憎世の中にそんな能力者はいない。
社会は、マジョリティは生を尊重する。
反論材料がないため、生と死の価値が逆転した人たちは隅っこで息をするしかない。
この状況は変わらないのだろう。
国によっては安楽死のような制度があるが、取扱には慎重だ。そもそも日本では実施される気配もない。希望者はそれなりにいそうだが、『人道的』な考えとやらには勝てないだろう。
結局、私たちは産まれた以上、不可避の死にぶつかるまでは生きるしかないらしい。
生きるには金が必要で、最低限の生活のために働かざるを得ない。能力主義、ルッキズム諸々による素朴な差別を浴びながら、それでもその日を食いつなぐための消費活動をしないといけない。その苦痛が当人にとって死より重いとしても証明の手立てはなく、生きることに関して社会は徹底的に容赦がない。
死を許す世界と許さない世界、どちらがグロテスクなんだろうか。
それを断言する根拠がない以上、私たちは今日も搾られるしかないのである。
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