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旅の記:2023年11月のツアー㊴戸次川古戦場跡<長宗我部信親墓>(大分県大分市)

【旅の記:2023年11月のツアー㊴戸次川古戦場跡】

天正14年(1586年)大友宗麟は北進する島津軍を止めることができずに上方へ向かい、豊臣秀吉に大阪城で謁見した。豊臣傘下になることを引き換えに、軍事的支援を得ることに成功する。
島津家久が大友氏の鶴ヶ城を攻撃する中、これを救援すべく仙谷久秀、十河存保、長宗我部元親ら四国勢を中心とした先発隊は同年12月11日、戸次川の手前に陣を敷いた。軍議が開かれると、軍艦であった仙谷久秀は川を渡り攻撃を開始するように主張する。しかし秀吉からの命は「豊後国にて防備を固めよ」であり、また歴戦の将である長宗我部元親は「加勢を待つべし」と反対した。これを久秀は頑として受け入れず、十河保存も久秀の案に理がありと賛成したため、12月12日戸次川を渡り出陣した。戦闘は最初、豊臣軍優位に進みますが、追撃のため豊臣軍が川を渡り終えると、薩摩軍は突如反転して、左右からも伏兵が襲いかかり、3方向から豊臣軍を挟撃した。ここでも「釣り野伏せ」を発動!これにより大混乱に陥った豊臣軍は戦死者が続出、長宗我部元親の長男・信親と十河保存は包囲され、討ち死にしてしまった。息子と離れ離れとなった元親はなんとか戦場を離脱することに成功し、そのまま伊予国の日振島まで逃走したが、この途中、信親の死を知った元親は自害しようとして家臣に止められている。
秀吉の命令も聞かず、開戦を主張した仙谷久秀は敗走する軍を取りまとめるという軍監としての責務も果たさず小倉城に逃走、さらに家臣20名と遠征軍の敗残兵を率いて讃岐まで退却した。この失態により秀吉は讃岐国を召し上げ、秀久は高野山に追放された。

戸次川古戦場
戸次川。対岸に豊臣軍が陣を敷き、出陣すると川を渡り始めた。

戸次川沿いの国道10号線から少し入ったと小高い丘の上に長宗我部信親の墓。お父さんの落胆ぶりはすさまじく、英雄としての覇気を一気に失った。信親が生きていたら土佐を失うこともなかったかも。。

古戦場の碑?
鶴ヶ城戸次川原合戦之碑。豊臣軍が敗れ、鶴ケ城も落とされた。
御霊神社として祀られる長宗我部信親の墓。
こちらは新しく建てられたお墓、かな
信親の鎧が収められているという鎧塚
十河一族、多田一族の慰霊碑、多くのお地蔵様がありました。

仙谷久秀は小田原征伐に旧臣を集めて馳せ参じ、武功をあげて信濃国小諸を与えられて、大名として復帰した。

高知にも信親のお墓がありましたね。
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