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「友だちはいません」とあっけらかんと言う大学生の身軽さと、私の小さな冷や汗

1. 面談の風景と、かつてない言葉たち

新緑の鮮やかさが少しずつ濃くなり、新しい環境への緊張がほどよく解け始めるこの季節、私はクラス担任として30人ほどの学生たちと一人ずつ研究室で向き合う日々を送っている。

ミーティングテーブルを挟んで座る学生たちの表情は、一見すると一様に明るく、大学という新しい舞台にそれなりに適応しているように見える。

しかし、欠席時の連絡先を確認するために「もし体調を崩して講義に出てこられないようなとき、代わりに連絡を取ってくれる友だちはいる?」と何気なく尋ねたとき、その場の空気はかすかに揺れる。

「“友だち”っていえば、そうなのかな……」

いつも講義室で隣の席に座り、お昼休みを共に過ごしているクラスメイトの名前を挙げながらも、その関係を「友だち」と呼ぶことに、学生たちは一瞬の躊躇を見せるのだ。あるいは、寂しそうな顔をするでもなく、むしろすっきりとした表情でこう明言する学生もいる。

「僕、大学には“友だち”いないんですよ」

その言葉には悲壮感もなければ、孤立を恥じるような様子もない。あまりにもあっけらかんと言い切るその姿に、私は一瞬、言葉を失うと同時に、胸の奥に不思議な新鮮さを覚えていた。

2. かつての「友だち幻想」と、学生たちへのリアルな羨望

学生たちのこの淡々とした態度を見つめながら、私は自分の学生時代を振り返らずにはいられない。私が大学生だった頃、「友だちがいない」などということは、何が何でも隠さなければならない「孤独」であり「敗北」であった。

いわゆる「便所飯」という言葉が象徴するように、一人でいる寂しい人間だと思われないための過剰なプレッシャーが、当時のキャンパスを覆っていたように思う。私たちは常に、目に見えない「友だち幻想」に縛られていたのだ。

それに比べると、今の学生たちの人間関係のマップは、驚くほど細かく、そして機能的にセグメント(分断)されている。彼ら、彼女らにとって大学のクラスとは、「講義を受け、単位を取得するための機能的な場所」に過ぎないのかもしれない。

全人格をそこに投じる必要はなく、サークルや部活動、アルバイト先、あるいはSNSの趣味のコミュニティなど、別の場所にそれぞれの「本当の居場所」を多層的に確保しているのだ。

関係性を身軽に切り分け、過剰な同調圧力からしなやかに身をかわす学生たちの生き方は、非常に合理的でタフに見える。ミーティングテーブルを挟みながら、私は心のどこかで彼らを眩しく思い、そして率直な羨望を抱いていた。もし私が、彼ら彼女らの年齢のときに、これほど鮮やかな距離感の取り方を身につけていたら、あの傷つきやすかった季節を、もっと楽に生きられたかもしれない、と。

3. 「自由」と「防衛線」の境界線で

しかし、教員という立場、あるいはクラス担任という「学生たちの生活を預かる立場」に視点を引き戻したとき、その身軽さは、別の輪郭を持って私に迫ってくる。

先月行われた新入生歓迎会での、ある光景が頭をよぎる。
クラス担任としての重要な仕事の一つは、学生を“孤立”させないことだ。会場の賑やかな歓声と笑い声が響く中、私は壁際で一人、ぽつんと佇んでいる学生を見つけた。声をかけようと近づいたが、彼の耳には終始、イヤホンが深く押し込まれていた。彼は周囲の喧騒を遮断するように、自分の世界に没頭していた。

「賑やかな場所が苦手なのだろう」
「一人で音楽を聴くのは彼の自由であり、権利だ」

大人の理性が、一度はその選択を納得しようとする。現代的な「個の尊重」に倣うなら、彼の領域に踏み込まず、そっとしておくことこそが正解なのかもしれない。しかし‥私はその場で立ち往生してしまった。

あのイヤホンは、本当に音楽を楽しむためのものだったのだろうか。それは、「誰からも話しかけられないための」、あるいは「話しかけて拒絶されるのを防ぐための」、傷つきたくない彼が必死に張った「静かな防衛線(バリア)」ではなかったか。

もしそうであるならば、それを「自由」という便利な言葉で見過ごしてしまってよいのだろうか。私の心の中に、言葉にならない冷や汗のような迷いがじわりと広がっていった。

4. 視点の転換と、セーフティネットの脆さ

面談を終え、「失礼します」と身軽な足取りで研究室を出ていく学生たちの後ろ姿を見送るとき、かつて抱いた身軽さへの称賛は、冷や汗の交じる具体的な「心配」へと変貌する。

大学という場所は、高校までとは決定的に違う。毎朝必ず全員が顔を合わせるわけではなく、親元を離れて一人暮らしを始めた学生も多い。彼らが実践している「傷つかないための合理的な切り分け」は、学生たちが心身ともに健康で、万事が順調に進んでいる「100%の状態」のときにしか機能しない、非常に脆いシステムなのではないかという危うさが、どうしても頭を離れないのだ。

もし明日、学生たちが突然深い悩みを抱えたり、病気で部屋から出られなくなったりしたとき、一体誰がその異変に気づくのだろう。

「大学には友だちはいない」と割り切ったその部屋のドアを叩き、「あいつ、今日来てないな」と部屋を見に行ってくれる人はいるのだろうか。お互いに踏み込みすぎず、迷惑をかけない関係性は快適だが、それは同時に、いざというときに命を繋ぎ止めるための最低限の網の目(セーフティネット)すらも、自ら手放してしまうリスクと隣り合わせなのだ。

5. 結び:「寛容さ」という名の、生存の網の目

私たちが本当に恐れるべきは、かつて私たちが恐れた「友だちがいないという寂しさ」という情緒的な問題ではない。合理性と自己防衛の果てに、お互いの生存を確認し合うつながりまでが機能的に排除されてしまうという、リアルな孤立の危うさである。

学生たちが求める「傷つけ合わない優しさ」の快適さを理解し、羨ましく思う気持ちは今もある。それでも私は、この教壇から、あるいは研究室から、彼ら彼女らに向かって「小さなお節介」を焼き続けたいと思う。

それは「友だち」という、かつてのような大袈裟で重たい名前である必要は全くない。ただ、同じ空間を共有する者同士が、ほんの少しだけ相手の領域に踏み込み、踏み込まれることを許容するような、グラデーションのある関係性でいい。

「“友だち”っていえば、そうなのかな」

そうやって言葉を濁しながらも、お互いの存在をどこかでうっすらと気遣い合う。そんな不完全で、少しだけ面倒で、けれど確かにそこに他者がいるという「寛容さ」の尊さを、私は学生たちの身軽な生存戦略を尊重しながらも、そっと手渡していきたい。今日もまた一人、一人暮らしの部屋へと帰っていく学生の後ろ姿に、「また明日ね」と声をかけながら、私は心の中で、彼ら彼女らの無事を祈っている。

コングラいただきました!ありがとうございます🥰

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