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なぜ元バックパッカーはインドで、そして介護現場で「生」を感じるのか

はじめに

以前書いた「なぜ介護職には元バックパッカーが多いのか」という記事に、思いがけず多くの反響をいただいた。

不確定要素への強さや、多様な価値観に興味を寄せる柔軟さ。そうした旅人のスキルが介護現場で発揮されているのではないか、という見立てに共感してくださる方が多かったようだ。

私は介護の現場で直接働いているわけではなく、「ケアの倫理」を専門とする哲学者である。だが、現場で生き生きと働く元バックパッカーの方々の語りを聞くたびに、私の頭にはある一つの風景が浮かび上がる。

それは、混沌と熱気に満ちたインドの日常だ。

一見するとまったく別物に見える「インドへの旅」と「介護の現場」。

しかし、この二つには、人間が生きるということの根底に関わる、決定的な共通点があるのではないか――。
今回は哲学者としての視点から、その思考の繋がりを少し深掘りしてみたいと思う。

近代社会が覆い隠してきた「剥き出しの身体」

私たちが暮らす現代の都市生活は、驚くほど清潔で、効率的で、計画的である。
しかしその快適さと引き換えに、私たちはあるものを生活の視界から覆い隠してきた。
それは、「人間は、生々しい身体を持った存在である」という事実だ。

老いること、病むこと、身体を洗うこと。さらには「死」そのもの。かつて人びとの日常と地続きにあったこれらの営みは、現代社会ではシステムや専門施設の中に綺麗に格納され、なるべく「見えないもの」として扱われるようになった。

西洋哲学は長らく、デカルトの「我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」に象徴されるように、頭で考える理知的な自己を重視してきた。しかし、私たちが覆い隠してきた現実は、むしろ「我身体を抱え、我老いる、故に我あり」とでも言うべき、圧倒的な身体の生々しさだ。

インドの街やガンジス川の畔(ほとり)に立つと、その近代的な隠蔽は鮮やかに崩れ去る。

川べりでは、人々が身体を洗い、衣服を洗濯し、生活を営み、祈りを捧げている。そのすぐ目と鼻の先で牛が生命を巡らせ、さらに先では人生を全うした方の遺体が荼毘に付され、川へと流されていく。そこには、生と死、清潔と汚濁、日常と聖なるものが、何の隔たりもなく同じ空間に混ざり合っている。

旅人がインドで覚える「生きている」という強烈な感覚や、どこか救われるような安心感。それは、エキゾチックな珍しさから来るものだけではない。人間が生きるとは、本来こういうことだったのだ」という身体の原点に、ダイレクトに触れるからではないだろうか。

介護現場で出会う「ふたつの生の原風景」

そして、この「剥き出しの生」との再会こそが、介護現場の日常そのものでもある。元バックパッカーの介護職の方々の言葉からは、インドの風景と現場が鮮やかに重なる瞬間が窺える。

1. 身体の巡りと浄化――「生きていること」の肯定

ある元バックパッカーの職員は、こんな風に語ってくれた。

「最初はインドの川べりで、生活のすべて――洗うこと、排泄すること、そして死にゆくこと――がごちゃ混ぜに存在しているのを見て圧倒されました。でも介護の現場に入り、初めて排泄介助をしたとき、あの風景が蘇ったんです。『身体の巡りや身を洗うこと』は隠すべき不潔なことではなく、人間が生きていることの最も素朴で健全な証明なんだ、と。だから変な遠慮や羞恥心もなく、ただ肯定的にその営みを支えることができました」

効率や衛生を突き詰めた近代社会では「隠すべきもの」とされた人間の身体性や老いが、ここでは「生きている証」として爽やかに肯定されている。

2. ただ「そこに居る」ことの全肯定

また、インドの街角やアジアの旧市街に行くと、何をするでもなく、ただ家の軒先や木陰で一日中座っているお年寄りをよく見かける。何か生産的な活動をしているわけでもなく、ただそこにいて、通りかかる人と目を合わせ、チャイなどを飲んでいる。

現代の日本社会では「何か役割を持たなければ」「生産的でいなければ」と焦らされがちである。しかし、デイサービスのフロアでただボーッと窓の外を眺めている利用者の方を見たとき、あの路上のお年寄りを思い出すと言う人もいる。「何かを生産していなくても、ただそこに存在して呼吸しているだけで、その空間はちゃんと成立している」という確信だ。

介護の現場もまた、どれほど社会的肩書があろうとも、最終的には「食べる」「眠る」「排泄する」「自分のスペースに居る」という、人間としての最も根本的な営みに立ち戻る場所なのだ。

3. ケアを受ける側の救いと安心

この「生の肯定」は、ケアを受ける人にとっても大きな救いになっているのではないだろうか。
老いや病によって思い通りにならない身体を抱え、「迷惑をかけているのではないか」「情けない」と恥入ってしまう人は少なくない。しかし、自分の思い通りにならない身体やその巡り、衰えを「汚いもの」ではなく「当たり前の生命活動」として淡々と、かつ温かく受け止めてくれる人が側にいるとき、人は初めて自分の傷つきやすい身体を安心して委ねることができる。

完璧な自立を求める近代社会の価値観から離れ、人間の脆弱さをそのまま肯定してくれる眼差し。元バックパッカーの佇まいは、ケアを受ける側にとっても、自分の生を再び丸ごと愛おしむための「安全な居場所」をつくっているのだと感じる。

おわりに:ただ「そこにある生」に寄り添うということ

哲学者のカルロ・ストレンガーは、私たちが「自立した完璧な個人」であることを求められる現代の生きづらさを指摘した。しかし「ケアの倫理」が教えてくれるのは、人間は本質的に脆弱であり、他者に依存し、身体という不確定なものを抱えてしか生きられないという真実だ。

頭で考えるスマートな存在としての人間ではなく、脆弱な身体をもち、衰え、老い、傷つき、誰かを必要とする人間。インドの日常も、介護の現場も、私たちがうっかり忘れてしまいがちな「完璧ではないからこそ愛おしい、人間の生の原風景」を突きつけてくれる。

「ただ生きている、それだけで十分である」という感覚。
家があり、食べる場所があり、身体を洗い、眠りにつく。

元バックパッカーの介護職の方々が現場で見出している幸福感の正体は、私たちが近代化の過程で置いてきてしまった、この根源的な「生きることへの祝福」なのかもしれない。

💫みなさんは、旅先や日々の暮らしの中で「人間って、ただ生きているだけでいいんだな」とハッとした瞬間はありますか?
元バックパッカーの方、介護に携わっている方、あるいは「居場所」について考えている方……この記事を読んで感じたことや、ご自身の「旅の記憶」などがあれば、ぜひコメント欄で教えていただけると嬉しいです!

2026年8月3日、コングラいただきました😭ありがとうございます!

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