自然へ還るということ
母の飼っている高齢猫、くうちゃん。
今年で十七歳になる。
目は白内障気味に白濁し、毛艶にも老猫らしいボサボサとした無骨さが出てきた。たくさん食べるわりに身体は日ごとに骨張っていき、一日のうちに何度も何度も、貪るように水を飲む。
腎臓が、もう以前のようには機能していないのかもしれない。
先日、くうちゃんが突然の痙攣(けいれん)を起こした。
発作はすぐに収まったものの、その数日後、またしても同じ発作が彼女を襲った。
私がかつて、十九歳で看取った猫の最期も全く同じだった。
激しい症状が出たのが夜中だったため、慌てて救急病院へ駆け込み、それからあらゆる先進的な治療を施した。
けれど、愛猫は毎日をただただ苦しそうに耐えていた。呼吸をするだけで精一杯のように見えた。肺に水が溜まり、ご飯もほんの少し舐めるのが精一杯だった。
そうして、発作から数えて三ヶ月経った夜に突然命の灯火が消え旅立ってしまった。
母は、くうちゃんを絶対に病院へ連れて行こうとしない。
そして私は、迷いつつもその選択に異を唱えることができない。
ああして散々医療の手を尽くしたものの、結果としてただ「死に行く苦しみ」を長引かせ、彼女を苦しめてしまっただけではないか――。
あのとき旅立った猫の最期の火葬場での姿を思い出すたび、私は今でもずっと後悔し、そのわだかまりを心の中に抱え続けているからだ。
命の灯火が消えかけようとするとき、医療の力で無理にそれを引き留めるのは、ただの飼い主のエゴなのではないかと、感ぜずにはいられない。
自分の力で食べられなくなり、飲めなくなったら、それ以上の無駄な医療は施さない。ただ苦しみを取り除いてあげることだけを考え、あとは自然の引き潮にその身を委ねさせる。
それこそが、命に対する最も幸福で、静かな看取りの形ではないだろうか。
果たして、人間はどうだろうか。
もし、自分自身や、すぐ側にいる身近な人が同じ状況に陥ったとき、私たちはこれほど潔く、自然に命を還す選択ができるだろうか。
窓辺の光の中で、小さく、静かに息をする十七歳の姿を見つめる。
医療が発達しすぎたこの現代を生きる私たちに、その正しい答えはまだ、どこにも用意されていない。
私は今日も、先に旅立った愛猫に、くうちゃんが残された日々を苦しまず過ごせるようお願いする。きっと彼女が力を貸してくれると信じている。
