秘密の二重部屋

図面よりも十五センチ狭くなった部屋で、私の退屈な人生はチェリーピンクの密室へと転がり落ちた。
古いホテルの壁。
ベニヤ板を剥ぎ取ったその奥には、窓のない、ひっそりと息を潜めるような小さな空間が隠されていた。
足を踏み入れると、時間の流れが唐突にどろりと重くなる。
部屋中の壁という壁には、気の狂ったような筆致で幾重にも油絵の具が塗り重ねられていた。
それらの気の遠くなるような作品の残骸は、剥き出しの狂気と情熱の破片をコラージュしたようにおぞましく、そして美しかった。
それを見てしまってからというもの、私は毎晩のようにその隠し部屋に通うようになった。
昼間の喧騒から逃れ、この静謐な狂気の中に身を置くことが、すり減った心を癒やす唯一の安らぎとなっていた。
その夜も懐中電灯の光を頼りに部屋の奥へ進むと、そこに誰かが座っていた。
古ぼけたトレンチコートを着た、痩せた中年の男だ。
彼はイーゼルに向かうでもなく、ただ何もない壁の一点をじっと見つめている。
私が息を呑んで硬直していると、男は乾いた声でぽつりと呟いた。
「おい、そこの効率人間」
「ひっ……!」
「そんなに眉間にしわを寄せて、肩に数字をびっしり背負い込んで、君は一体、いくつ自分の『時間』を絞め殺して生きてきたんだ?」
男はゆっくりとこちらを振り返った。
ぎょろりとした大きな目が、懐中電灯の光を反射して怪しく光っている。
恐怖より先に、あまりの場違いな問いかけに思考が追いつかずフリーズした。
「……私は、ただ、仕事の息抜きに……」
「息抜き? そいつは素晴らしいねえ!」
男は膝を叩いて楽しそうに笑った。
すると、その笑い声を合図にしたかのように、壁の油絵の具のうねりの中から、次々と「影」が染み出すように現れ始めた。
耳にパレットをくっつけた男が
「やあ、今日の差し入れは何だい?」
と首をかしげ、その隣ではボロボロのタキシードを着た男が
「私の魂の彫刻を見てくれ!」
と、何もない空間を必死で捏ね回している。
ここは、かつて世間から見放された芸術家たちの幽霊サロンだった。
「驚いたかい?」
最初の中年の男――自称・呪われた天才詩人は、トレンチコートの襟を立ててふんぞりかえった。
「ここはね、時間を止める場所じゃない。余計なものを削ぎ落とし、ただ阿呆になるための聖域だ。なぁ、君のその、カチカチに乾燥した頭蓋骨の中身を少し見せてごらん」
私は呆然としながらも、なぜか逃げ出そうとは思わなかった。
日々の理不尽なプレッシャーや、数字で評価される息苦しい毎日の愚痴が、気がつくと自然に口をついて出ていた。
「上司には怒鳴られるし、企画書は何度直しても『血が通ってない』なんて言われるし……私、どうすればいいのか……」
それを聞いた詩人は、大真面目な顔で腕組みをした。
そして、神妙な面持ちでこう言い放った。
「なるほど……。ならば、君の上司の眉間に、今すぐ真っ赤なチェリージャムを塗りたくってやるといい。さすれば世界は平和になる」
「いや、それは社会的にクビになるのでは……」
「クビ? なんだい、それは新しい芸術の称号かい?」
隣でジャム(らしきもの)を壁に塗りたくっていた画家が首を突っ込んでくる。
彫刻家は空気の塊を私に押し付けて「これを抱いて眠れ」と勧めてくる。
彼らの会話はどこまでもズレていて、救いようがなくて、そして驚くほど軽やかだった。
「……ふっ、ははっ……!」
思わず、笑い声が漏れた。
一度漏れたら、もう止まらなかった。
日々の焦燥も、数字への恐怖も、彼らの前ではただの「馬鹿げたお遊戯」に思えてきたのだ。
翌朝、私は現実のデスクに座り、相変わらず山積みの書類の前に座っていた。
上司が冷たい声で何かをまくし立てている。
かつての私なら、胃をキリキリ痛めながら「申し訳ありません」と頭を下げていただろう。
しかし、今の私の頭の中には、あの部屋の住人たちの間抜けな顔と、甘く生温かいチェリーピンクの湿度が鮮やかに蘇っていた。
上司の顔を見つめながら、私は想像する。
眉間にたっぷりと塗られた真っ赤なチェリージャムを。
「おい!聞いてるのか?」
と怒鳴る上司を前に私はふっと、隠しきれない笑みをこぼしてしまったのだった。
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あとがき
「役に立つこと」や「正しさ」という定規でばかり自分を測っていると、いつの間にか生きるための柔軟さが失われてしまうことがあります。
あのチェリーピンクの密室は、合理性という分厚い壁に風穴を開け、本来の不条理で豊かな自分を取り戻すための、小さくも神聖な隠れ家でした。
効率を手放してただ「阿呆になる」ことは、私たちが現実を軽やかに生き抜くための、ささやかで最も深い抵抗なのかもしれません。
