世界が滅びる前に、プリンを二個食べよう


世界が音を立てて消えていく朝、僕たちは妙に生々しく唸る「冷蔵庫の音」を聞いていた。

窓の外のバイオレットの霧は日に日に低く垂れ込み、街から名前という名前がすり減っていく。



記憶という名の砂糖水が溶けきったあとの世界で、僕の唯一の手がかりは、彼女の纏うモノトーンの気怠さと、リビングに転がる埃まみれの本だけだった。

古めかしいアパルトマンの一室。
壁際の小さな棚からは、お気に入りのサティのピアノ曲が途切れ途切れに流れていた。


核の脅威でも、隕石の落下でもなく、この世界の終焉はとても静かで、気だるげだった。



人々から「昨日の記憶」が少しずつ失われ、言葉が霧散し、街全体が深い眠りに落ちる前のまどろみに包まれていた。

ソファに深く腰掛けた「僕」は、自分の右手を見つめていた。

綺麗な爪をしている。
指先にはインクの染みがわずかに残っている気がする。
けれど、自分が何者で、何を書いていたのかは思い出せない。



キッチンから、カチャリと小さな音がした。
振り返ると、ヴィンテージライクなシャツを着た女性が、冷蔵庫のドアを開けたまま佇んでいた。

彼女もまた、自分の名前を忘れている。
僕たちは恋人だった気もするし、かつて小さなカフェの窓辺で同じ古い映画について語り合っていた友人同士だった気もする。



「ねえ」

彼女は冷蔵庫の奥を覗き込みながら、振り返らずに言った。

「私たちが昨日、何を話していたか覚えてる?」

「さあ」

僕は首を振った。

「たしか、映画のワンシーンの、どのカメラワークがいちばん気取っていたかについて、朝まで議論していた気がするし……違ったかもしれない」

「そうね。きっと、もうどうでもいいことだわ」


彼女はフッと笑うと、冷蔵庫から何かを取り出して振り返った。

両手には、少し高級な、ガラス瓶に入ったプリンが乗っていた。
しかも、残り時間もわずかだというのに、なぜか冷蔵庫にはそれが四個、並んで収まっていた。


「奇跡ね」

彼女はリビングのテーブルに歩いてくると、プリンを四つ並べて置いた。

「世界が終わるっていうのに、まだ冷えてるわ」

「一人一個じゃないのかい?」

「ううん。今日は贅沢をするのよ。地球が滅びるんだもの、カロリーも、常識も、明日の予定も知ったことじゃないわ」

彼女は銀色のスプーンを二本引き出し、そのうちの一本を僕に手渡した。
カチャリ、と僕たちの指先が触れ合う。

ひんやりとした金属の感触が、なぜかひどく生々しかった。


僕たちは向かい合って腰掛け、無言でプリンのフィルムを剥がした。

カチッ、とプラスチックの蓋が剥がれる音が、静まり返った部屋に心地よく響く。

スプーンを入れ、すくい上げる。
淡黄色の滑らかな生地の下から、濃い琥珀色の、とろりとしたカラメルが姿を現した。


「じゃあ」

彼女が小さくグラスを掲げるように、スプーンを持ち上げた。

「世界が滅びる前に」

「プリンを二個食べよう」


一口、口に含む。
卵の濃厚な甘さと、焦げたカラメルのビターな香りが、舌の上でふわりとほどけた。

その瞬間、忘れていたはずの記憶の断片が、奇妙なかたちで脳裏にフラッシュバックする。


——雨の日の窓辺、淹れたてのコーヒーの湯気。小さな映画館の重い扉。

くだらないジョークで僕が吹き出したときの、少し誇らしげな横顔。

でも名前は思い出せない......。
昨日の晩御飯も、自分の年齢も、明日が来るのかどうかもわからない。

けれど、
「この味と、スクリーンの光と影の記憶だけは好きだった」
という感覚だけが、舌の根っこから胸の奥へと温かく染み込んでいく。


「おいしいね」

僕が言うと、彼女は少し目を細めて、満足そうにうなずいた。

「うん。少し苦くて、甘い」

部屋の隅の棚で、小さなスピーカーが静かなピアノ曲を奏でている。
世界の終わりだというのに、恐怖はどこにもなかった。

あるのはただ、最高に甘くて、最高にほっこりとした温もりだけだ。



僕たちは無言で二つ目のプリンにスプーンを入れた。

甘さが口いっぱいに広がるたび、世界が少しずつ白く溶けていく。

すべてがリセットされる直前。
彼女は空になったガラス瓶を机に置き、クスッと笑って窓の外を見た。


「ねえ」

「うん?」

「もし、万が一、明日も世界が続いていたらさ」

「うん」

「次はどこかの街の、小さな映画館でお茶にしようか?」


僕はスプーンを置き、彼女の悪戯っぽい瞳を見つめ返した。

「そうだね。まずは、真ん中の席の予約から始めよう」

窓の外でバイオレットの空がゆっくりと夜に溶けていく中、僕たちは世界が終わるその真ん中で、どこまでも軽やかに、明日へ向けて微笑みあったのだった。


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        あとがき

世界の終わりが、これほど静かで、甘やかなものであったなら。
記憶がすべて霧散して名前さえ忘れてしまったとしても、舌の記憶と、隣にいる誰かの体温だけが最後に残るなら、それは決して悲劇なんかではないのかもしれません。
日常の形が曖昧になっていく世界で、「地球が滅びるんだもの」と笑ってスプーンを運ぶふたりの姿は、終わりを迎える恐怖よりも、いまこの瞬間を味わうことの愛おしさに満ちています。
忘れてしまった名前も、明日があるかどうかもどうだっていい。
ただ目の前にある甘さと苦さと、音楽と、ささやかなユーモアさえあれば。

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