「家を失った」は本当に同じなのか――被災する前から“失う資産すらない人”の視点
災害が起きるたび、ニュースではこうした言葉をよく耳にします。
「長年住んできた持ち家を失った」
もちろん、これは大きな悲劇です。
思い出の詰まった家を失い、住宅ローンだけが残ることもある。
保険ですべてが戻るわけでもありません。
だから、持ち家を失った被災者を責めたいわけではありません。
ただ僕は、もう一つの視点も必要ではないかと思います。
被災する前から「失う資産すらない人」は、これをどう見るのだろう
世の中には、そもそも持ち家を持てない人がいます。
何十年働いても家を買えない人。
ずっと賃貸で暮らしている人。
貯蓄がほとんどない人。
住宅ローンを組めるだけの収入や信用を持てない人。
そういう人たちから、
「数千万円の持ち家を失いました」
という話は、どう見えるのでしょうか。
もちろん、失った本人にとっては悲劇です。
しかし、
「自分には、そもそも失う家すらない」
そう感じる人がいても、不思議ではないと思います。
これは被災者への嫉妬という単純な話ではありません。
むしろ、
「失えるものを持っていた」ということ自体が、ひとつの豊かさだったのではないか
という問いです。
少し厳しい表現かもしれません。
でも、資産を持たない人から見れば、
土地がある。
家がある。
保険がある。
再建できるだけの信用がある。
そうしたものは、被災する以前から存在していた「差」でもあります。
100を持っていた人が50を失う。10しかない人が10を失う。
金額だけ見れば、前者の被害のほうが大きい。
しかし生活への打撃はどうでしょう。
100を持っていた人には、まだ50が残るかもしれない。
10しか持っていなかった人が10を失えば、
ゼロです。
そして世の中には、その「10」すら持たずに生きている人もいます。
だから被災について、
「何円の家を失った」
「どれほど大きな資産を失った」
という物差しだけで語ることには、少し違和感があります。
被災前から存在していた格差は、災害によって消えない
災害は人を選びません。
しかし、
災害を受け止める余力は、人によってまったく違います。
資産がある人。
貯蓄がある人。
保険がある人。
頼れる家族がいる人。
安定した仕事がある人。
一方で、
貯蓄がない人。
賃貸暮らしの人。
身寄りがない人。
仕事まで失う人。
同じ災害に遭ったとしても、再出発地点は同じではありません。
むしろ災害とは、
平時には見えにくかった社会の格差を、一気にむき出しにするもの
なのかもしれません。
「持ち家を失った人が可哀想」で終わらせていいのか
ここで誤解してほしくないのは、
持ち家を失った人は恵まれているのだから我慢しろ
と言いたいわけではないことです。
家を失う悲しみは、本物です。
しかし同時に、
被災する以前から家も資産も持てず、それでも生活していた人がいる。
その人たちの存在も見なければならない。
「何を失ったのか」だけではなく、
「被災する前に、そもそも何を持つことができていたのか」
まで見る。
そこまで考えて初めて、被災者を公平に見ることになるのではないでしょうか。
持ち家を失うのは悲劇です。
しかし、
失う持ち家すら最初から持てなかった人もいる。
被災について語るとき、僕たちはこの視点を忘れてはいけないと思うのです。

