百獣の魔王 【ショートショート】
照りつける太陽の下、野性の風が吹き抜ける荒野には、今日もむせ返るほどの血の匂いが漂っていた。
強き者が弱き者を喰らい、命を奪うことで命を繋ぐ。
それがこの世界の絶対的な掟であった。
狩りを終えた同胞たちは、獲物の肉を貪り、血に染まった牙を剥き出しにして、咆哮を上げている。
その騒がしい宴の輪から離れた岩陰で、一匹の猛獣がうつむき、深い思索の中に沈んでいた。
彼は、自らに与えられた鋭い爪と強靭な顎をひどく嫌った。
なぜ、他者の命を引き裂かなければ、自分は生きられないのか。
毎日繰り返される殺戮、暴力の連鎖。
その理不尽に、彼は特異な知性を持って気付いてしまったのだ。
血塗られた暴君である己の種の在り方を恥じた彼は、ある日、前代未聞の決断を下した。
「私はもう、他者の命を奪わない」
それは、肉食の本能を否定し、自らの死をも覚悟する誓いだった。
彼はまず、爪を岩にこすりつけて丸く削り、恐ろしい牙を見せないよう固く口を結んだ。
そして、以前まで獲物としか見ていなかった草食獣の群れへ、単身でそろりと歩み寄った。
天敵の姿を見た草食獣たちはパニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
彼は襲いかかる素振りを見せず、その場に座り込んだ。
やがて、群れを束ねる立派な角を持った長老らしき獣が、恐る恐る尋ねてきた。
「己の本分をお忘れか」
「忘れた。だから、逃げる必要はない」
猛獣は穏やかな声で、理性を持って語った。
これからは、木の実や枯れ葉を食べて飢えを凌ぐこと。
そして、二度と加害しないこと。
初め、誰もその言葉を信じなかった。
だが、彼が本当に落ち葉や木の実を口にし、群れのそばで無防備に眠る姿を晒し続けるうちに、草食獣たちの警戒心は徐々に解けていった。
さらに、猛獣が居座っているおかげで、他の肉食獣たちがこの一帯に近付いてこない。
猛獣はただそこに存在するだけで、草食獣たちを守る城壁となったのだ。
まさに平和の象徴であり、王だった。
血が流れることのない静寂の日々。
いつしかそこは、すべての草食獣が夢に見た、平和な楽園となった。
猛獣も、本能に逆らった自分の判断が間違っていないことを確信し、誇らしい思いを抱く。
しかし、永遠に続くと思われた静寂は、やがてその姿を歪ませていった。
天敵に喰われる恐怖を失くした草食獣たちは、爆発的にその数を増やし始めたのだ。
繁殖力が高いため、新しい命が次々と生まれ、群れはかつてない規模へと膨れ上がった。
それに伴い、致命的な問題が生じる。
彼らの食料である草と水が、またたく間に足りなくなったのだ。
最初は譲り合っていた草食獣たちも、やがて飢えと乾きに耐えきれず、小さな水たまりや生えかけの草を巡って激しく争うようになる。
彼らは、肉食獣から身を守るために発達させた鋭い角や強靭な蹄を、あろうことか同胞に向けて振り下ろし始めた。
そこかしこで、草食獣同士による血みどろの戦いが繰り広げられる。
喰われる危機を忘れた彼らは、際限なく自然を食い荒らし、緑豊かだった土地を、ひび割れた不毛の砂漠へ変貌させてしまったのだ。
暴力の連鎖を断ち切るために創った楽園は、飢餓と同族殺しが支配する、生々しい地獄と化したのである。
砂埃が舞う荒れた大地。
瞑想していた猛獣の足元へ、一匹の草食獣がよろよろと歩み寄った。
それは、かつて対話をしたあの長老だった。
彼は無残にも、立派な角を折られ、全身に無数の傷を負い、骨張るほど痩せこけている。
今にも息絶えそうな様相だ。
長老は細い呼吸を繰り返しながら、かすれた声で嘆願した。
「どうか、お願いだ。我々を、喰らってはいただけないだろうか。あなたの牙がなければ、我々は自らの数と欲望で、世界そのものを滅ぼしてしまう」
痛切な叫びを聞きながら、猛獣はゆっくりと目を開け、深く長い溜息を吐いた。
心の中に、重い諦念が広がっていく。
自分が何よりも忌み嫌い、否定したあの残虐な血の儀式。
それこそ、この世界の均衡と調和を保つ、欠かせない楔だったのだ。
命を奪う者がなければ、命は尊さを失い、やがて自壊していく。
その身を差し出す長老の前で、猛獣は何も言わずに立ち上がった。
そして、硬い岩肌に向かい、丸まっていた爪を力強く擦りつける。
再び残酷な凶器を取り戻すために。
自分はもう、平和を夢見る哲学者ではない。
世界を存続させるために殺し、多くの弱き者に憎まれ、恐れられる存在になるのだ。
爪を光らせ、牙を剥き出しにした彼は、初めからそうであったかのように、理不尽なる殺戮の荒野へ駆け出した。
彼の牙から生き延びた獣は憤って叫ぶ。
「全て計画通りだったんだ。私たちが数を増やすのを、腹を減らして待っていたんだ。奴はまさに卑劣な魔王だ」
