額面と檻 【ショートショート】
灰色の空からパラパラと雨が降り始めた。
麦わら帽子を被った青年が、畑に打ち込んでいた鍬から手を離し、ゆっくりと天を仰いだ。
すると、彼は肺いっぱいに空気を取り込み、空の雲に向かって声を張り上げる。
「お疲れ様です。ゆっくり休んでくださいね」
彼が一人で頭を下げる様子を、通りを挟んだ向かいの家から数人の男たちが見ていた。
「ほら見ろ。昨日、俺が言ってやったんだ。雨は雲が汗を流しているんだってな」
「まさか本当に労いの言葉をかけるとは。腹が痛い」
村人たちは窓の下で身を隠しながら笑い、湯呑みに注いだ酒をあおった。
部屋の隅では、昨日の夕方から放置されたままの農具が、乾いた土をまとっている。
数日後、青年は夜明け前から台所に立ち、握り飯を竹の皮に包んでいた。
「あの山の頂上には、どんな願いでも叶えてくれる虹色の鳥が棲んでいるらしい」
昨日、井戸端で聞いた話を思い返しながら、彼は山刀を腰に提げた。
水筒に水を詰め、まだ陽のない道を歩き出す。
道なき斜面を、笹を掻き分けて登っていった。
彼の背中が木々の闇に消える様を、ふもとの住人たちが目で追いかける。
「弁当まで持っていきやがった。あの様子だと、帰ってくるのは夜中になりそうだな」
「そうだな。もしかしたら、例の嘘んこの鳥を見つけるまで帰ってこないかもしれないぞ」
昼間、寄り合い所に集まった村人たちが、囲炉裏を囲んでけらけらと肩を揺らす。
彼らの次の関心事は、いかにして彼を山から海へ向かわせるか、あるいは屋根の上に登らせるかに移っていた。
話し込むうちに、やがて話題は、いかに奇抜な嘘を吐けるかという競争へ変わる。
「晩飯前に家の周りを逆立ちで三周すれば、思いもよらぬ幸運が舞い込むそうだ」
また、誰かが青年にそう告げた。
当日の暮れ、家の前で息を切らして逆立ちで歩く青年の姿があった。
土を掴む手は泥にまみれ、顔が真っ赤になる。
バランスを崩しては倒れ込み、また立ち上がって、地面に両手をつく。
薄い暗がりの中、周囲の家々から彼の不格好な歩みを観察する視線がいくつもあった。
時折、押し殺した笑い声が闇に吸い込まれる。
「庭の土を掘り返して石と入れ替えれば、ずっと昔に忘れられた金脈が見つかるそうだ」
青年は毎日、昼から夕方まで庭を掘り返した。
鍬を突き立てる音が、村にその行為の事実を知らせる。
青年は掘り出した土を運び出し、代わりに、河原から拾ってきた、大小さまざまな石を敷き詰めていった。
額には玉の汗が浮かび、手にはいくつもマメの潰れた跡ができる。
しかし、頬を拭う青年の顔には、疲労よりも生き生きとした充実感が浮かんでいた。
「お気に入りの雑草に、何度も優しい歌を聞かせてやれば、冬になっても枯れないらしい」
青年は家の前の道端にしゃがみ込み、名も知らぬ草に向かって、子守唄を歌い始めた。
草の葉についた虫を指先で取り除き、乾いた土には水を運んでやる。
彼は暇さえあればその作業を繰り返し、草の成長をじっと見守っていた。
通りがかる人は、その様子を見て見ぬふりしながらも、帰宅するなり笑い転げた。
そんな日々と共に、季節が巡る。
青年の家の庭は、すっかり様相を変えていた。
深く掘り返され、石が敷き詰められたことで水はけが良くなり、大雨が降っても水たまり一つできない。
石の配置は奇妙な均衡を保ち、枯山水を思わせる情緒を獲得している。
また、道端の雑草に歌を贈るため、彼は草木の観察を欠かさなかった。
その過程で不要な蔓は取り除かれ、日当たりが調整される。
彼の家の周りは、季節ごとの花が咲き、鮮やかな緑を保っていた。
そして、日課の逆立ちと庭仕事が、彼の肉体を作り変える。
肩幅は広がり、腕には太い血管が浮き出た。
体幹は頼もしく、屈強で、足取りは軽い。
冬の冷たい風が吹いても、彼は薄着で平然と作業をこなせた。
今日も向かいの家の窓から、その庭を覗き込む目があった。
「今日もやってるぞ。土の下に金脈があると信じているんだ」
「馬鹿な奴だ。あんな草に歌を歌って」
彼らの部屋の中は薄暗く、鬱屈として、空気が淀んでいた。
今、彼らの頭の中にあるのは、青年が自分たちの言いなりになって、無駄な労力を費やしているという優越感だけだった。
道に咲く花の色も、築き上げられた体格も、彼らの目には映らない。
寄り合い所に集まる人の数は増え、話し合う時間も長くなっていった。
「次はどうする。川の水を汲み出させようか」
「いや、今度は海に向かって踊りをさせるのはどうだ。きっと笑えるぞ」
「いいね、ぜひ見てみたい」
案が出るたびに、彼らの潜めていた声は大きくなっていく。
机には飲みかけの茶碗が放置され、外の畑では雑草が腰の高さまで伸びていた。
作物は鳥に食い荒らされ、鍬や鎌は納屋の隅で錆を作っている。
朝起きると、村人はまず窓の隙間から青年の家を確認した。
彼が教えられた通りの奇行をこなしているかを見届けることが、一日の始まりだからだ。
仕事に出ても、食事の席でも、話題はいつの間にか青年のことばかり。
一人の無知な人間を操っているという実感が、彼らの日々の生活を満たしていた。
ある朝、青年は新しい登山靴を履き、重い荷物を逞しい肩にかけて玄関を出た。
「隣町の向こうの森には、星を降らせる木があるらしい」
昨日聞いたばかりの噂話を胸に、彼は意気揚々と歩き出す。
その表情は、視線の先の青空のように明るい。
道端の石を蹴り、たまに立ち止まっては、鳥の声に耳を傾けた。
歩幅は広く、延々と続く道を、弾むように進んでゆく。
「星を拝めたら、なんとお願いをしようか。そうだ、いつも面白い話を聞かせてくれる村の人達の健康を願うのがいいだろう」
青年の姿が小さくなっていくのを、通り沿いに住む村人が見つめていた。
家の中はいやに静まり返っている。
掃除も碌にしないせいで、あちこちで埃の塊が舞っていた。
それでも住人は、荒れた畑を背に、張り付くようにして外を覗き続ける。
彼らは青年の姿が見えなくなるまで、窓枠にはめ込まれた木製の格子を握ったまま、そこから一歩も動かなかった。
