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竹田恒泰さんの「国史」教科書を読む シリーズ59 コラム トルコと日本の意外なつながり

明治23年(1890)、和歌山県串本町沖でオスマントルコ帝国(現在のトルコ)の軍艦「エルトゥールル号」が遭難し沈没する事件がありました。
この事件はトルコでは教科書で紹介されるほど有名ですが、日本ではあまり知られていません。

特使エミン・オスマン・パジャ提督率いる使節団は、日本で歓待を受け、明治天皇から親書と勲章を与えられました。その後、日本政府は船が老朽化していて、台風の時期にあたることから出発を延期するように伝えましたが、彼らはそれに従わず横浜港を出発し、本国トルコを目指しました。

そして、出航から2日経った9月16日の夜半、紀伊熊野灘にさしかかったエルトゥールル号は、台風の強風にあおられ、紀伊大島の樫野崎カシノザキに連なる岩礁に座礁して浸水し、水蒸気爆発によって沈没しました。

この事故で生き残ったものは69名のみで、約500名もの命が奪われました。

外国船の遭難を知った現地の日本人は、夜を徹して生存者を救助し治療しました。多くの住民は自分自身も貧しいにもかかわらず、衣服や食料を分け与えて看病したのです。

そのことを聞いた明治天皇は、大変驚いて即日、海軍の通報艦「八重山」に赤十字を通じて医者と看護婦を随伴させて派遣しました。
そして「八重山」の乗組員と島民は、収容した遺体を埋葬し、墓標を立てました。

その後、トルコ人生存者の体力が回復すると明治天皇は軍艦「比叡」と軍艦「金剛」をオスマン帝国に派遣し、生存者たちを帰国させました。比叡と金剛はイスタンブールに到着すると、オスマン帝国国民から盛大な歓迎を受けました。

日本とトルコの友情の物語にはまだ続きがあります。

エルトゥールル号遭難事件から95年の月日が流れた昭和60年(1985)、イラン、イラク戦争の最中、イラクのサダム・フセイン大統領が3月20日午後10時(日本時間)以降、イラン上空を飛ぶ航空機をすべて撃墜するとの声明を発した時のことです。

各国は軍用機や民間機のチャーター便を派遣して自国民の保護に努めましたが、当時の日本は自衛隊を海外に派遣することができない上に、政府が日本航空に救援機の派遣を求めるも、日本航空の労働組合が安全性などを理由に反対したことで、日本人の保護ができない事態に至りました。

そこで、イランに駐在する野村豊大使が困り果てて、在イラン・トルコ大使のイスメット・ビルセル氏に相談したところ、なんと、トルコが救援機を派遣して日本人を救出してくれることになったのです。

このとき、トルコ大使は
「トルコ人なら誰でもエルトゥールル号遭難事件の際に受けた恩義を知っています。恩返しをさせていただきましょう」
と語ったといいます。

そして大使の言うとおり、本当にトルコ航空の飛行機2機がテヘランに派遣され、215人の日本人が全員救出され、トルコ経由で日本に帰国することができました。
日本人を乗せたトルコの救援機がイラン領空を抜け出したのは、タイムリミットの1時間15分前。少し遅れればイラクの戦闘機に撃ち落とされていたかもしれない危険な飛行でした。

救援機の派遣を最終的に決断したトルコのトルグト・オザル首相は、他国民を助けるために、自国民を危険にさらす決断をしたことになります。
後に、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語っています。

「エルトゥールル号の事故に際して大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。
私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは、子供たちでさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。
それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」

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