【歴史総合講義録】#45 日露戦争の結果
みなさん、こんにちは。
前回の授業では、日本とロシアが命がけで戦った日露戦争の激戦の様子を見てきましたね。
今回は、その「後始末」と「世界への波紋」、そして「日本の内政や社会の変化」までを一気に駆け抜けます。共通テストでも超頻出の大事な単元ですので、熱気あふれる生の授業スタイルでじっくり解説していきますよ!
本日の見取り図:日露戦争の「後始末」で世界はどう動いたか?
まずは、今回の全体像を頭に入れておきましょう。
第1幕:ポーツマス条約と民衆の怒り(賠償金ゼロの衝撃と日比谷焼打ち事件)
第2幕:韓国併合への道と抵抗(外政の緊迫と外交協定、伊藤博文の暗殺)
第3幕:満州進出と日米関係の冷え込み(南満州鉄道株式会社の設立とアメリカの警戒)
第4幕:社会の変化と文化・思想(権利意識の高まり、夏目漱石・森鴎外、そして大逆事件)
1. ポーツマス講和会議と国民の不満
さあ、1905年。日本もロシアも、戦費も兵力も限界ギリギリでした。そこでアメリカ大統領セオドア=ルーズヴェルトの仲介で、アメリカのポーツマスにて講和会議が開かれます。
日本代表は全権小村寿太郎。ロシア代表はウィッテです。
ポーツマス条約の主な講和内容
朝鮮半島(韓国)における日本の優越権を認めさせる。
ロシアから旅順・大連の租借権および長春以南の鉄道(のちの南満州鉄道)を譲り受ける。
樺太(サハリン)の南半部(北緯50度以南)を割譲させる。
沿海州などの沿岸漁業権を獲得する。
問1:みなさんが当時の日本国民だったら、この内容で満足できますか?
実は、この講和条約には「賠償金(軍費の支払い)」が一切含まれていませんでした。ロシア側は「負けた覚悟はない、領土も金も払わん」と強硬だったため、小村寿太郎は「これ以上の戦争継続は無理だ」と判断し、泣く泣く賠償金を諦めたのです。
日比谷焼打ち事件の勃発
しかし、連日の新聞報道で「連戦連勝!」と聞かされ、重税に耐えて家族を戦場に送り出していた国民には、そんな外交の裏事情はわかりません。「勝ったのに賠償金ゼロとはどういうことだ!」と大爆発しました。
こうして1905年9月、東京の日比谷公園で決起集会が開かれ、暴動へと発展したのが日比谷焼打ち事件です。戒厳令が出されるほどの騒ぎとなり、時の第1次桂太郎内閣は退陣に追い込まれました。
2. 韓国併合への道と東アジアの国際秩序
日露戦争で勝利した日本は、朝鮮半島(当時の国号は「大韓帝国」)への支配を急速に強めていきます。ここ、共通テストで並べ替え問題や協定名が出やすいところです!
外交的固め打ち(1905年)
日本は周囲の欧米列強から「朝鮮を支配してもいいよ」というお墨付きを得る裏取引(協定)を次々と結びます。
桂・タフト協定(1905年7月):アメリカと密約。日本はアメリカのフィリピン支配を認め、アメリカは日本の韓国支配を認める。
第2次日英同盟(1905年8月):イギリスと締結。適用範囲をインドまで拡大し、お互いの権益を認め合う。
第2次日露協約なども含め、国際的な包囲網を完成させます。
協約の展開と韓国の抵抗
第1次日韓協約(1904年):日露戦争中、財政・外交の日本人顧問を置かせる。
第2次日韓協約(1905年):韓国の外交権を奪い、事実上の保護国化。ソウルに統監府を設置し、初代統監には伊藤博文が就任します。
これに対し、韓国の皇帝・高宗(コジョン)は「こんな協約は無効だ!」と訴えるため、1907年にオランダのハーグで開かれていた万国平和会議へ密使を派言します。これがハーグ密使事件です。
しかし列強は冷ややかでした。日本はこの事件を利用して高宗を退位させ、第3次日韓協約(1907年)を強行。韓国の内政権を奪い、ついに軍隊を解散させました。
解散させられた軍人や民衆は武器を取って起ち上がり、大規模な反日武装闘争である義兵運動が展開されます。
風刺画で見る「韓国併合」の構図
ここで、当時の国際情勢を表した有名な風刺画を見てみましょう。Georges Bigot(ビゴー)が描いた『魚釣り遊び』です。
この風刺画(ビゴー『魚釣り遊び』)は日清戦争前の構図ですが、「朝鮮(CORÉE)」という魚(利権・支配権)をめぐって、日本と清(中国)が釣り針を垂らし、橋の上からロシア(RUSSIE)が横取りを狙っています。
日清・日露の二大戦争を経て、最終的にこの「魚」を手に入れたのが日本でした。
伊藤博文の暗殺と韓国併合(1910年)
1909年10月、初代統監を辞任していた伊藤博文が、満州のハルビン駅で韓国の独立運動家・安重根(アンジュングン・あんじゅうこん)によって暗殺されます。
実は伊藤博文自身は「急速な併合は反対・時期尚早」という慎重派だったのですが、彼の暗殺によって日本政府内の併合断行派が一気に主導権を握ることになりました。
翌1910年、日本は韓国併合を強行し、大韓帝国は滅亡。「朝鮮」と改称され、現地には直属の植民地統治機関として朝鮮総督府が設置されました。初代総督は寺内正毅です。
武断政治:日本の憲兵が警察の要職を兼ねる憲兵警察制度を敷き、言論や集会を徹底的に弾圧。
土地調査事業(1910〜1918):近代的な所有権を確定させる名目で実施されたが、所有者が曖昧な共有地などが没収され、多くの農民が土地を失って小作農へと転落しました。
3. 史料問題対策:共通テストにでる!『ポーツマス条約』の読み取り
ここで共通テストの史料対策を1つ入れておきましょう!次の史料の文脈を読み解けますか?
【史料】ポーツマス条約(抜粋・意訳)
第2条:ロシア帝国政府は、日本国が韓国において有する政治上、軍事上および経済上の卓越せる利益を認め、…(中略)…これに干渉せざることを約束す。
第5条:ロシア帝国政府は、清国政府の承諾を以て、旅順口、大連並に其の付近の領地及び領水の租借権…を日本国政府に譲渡す。
【解法のポイント】
史料問題で「第2条」を見た瞬間に、「日本の韓国に対する優越権獲得(保護国化への道)」と結びつけてください。「第5条」の「旅順口・大連の租借権」は、のちに設置される関東総督府(のちの関東庁)や、1906年に設立された半官半民の国策会社である南満州鉄道株式会社(満鉄)の経営へとつながっていきます!
4. 満州進出と日米関係の悪化
日露戦争後、日本は獲得した満州(中国東北部)の権益を固めるため、1906年に南満州鉄道株式会社を設立し、インフラ整備と開発を進めました。
しかし、ここで新しい摩擦が生まれます。それがアメリカとの関係悪化です。
アメリカは日露戦争の講和を仲介してくれましたが、本音では「満州の市場(ドア)を開放して、自分たちもビジネス参入したい」と考えていました。しかし、日本がロシアと手を組んで(日露協約)、満州の権益を独占しようとしたため、アメリカは「話が違うじゃないか!」と激怒します。
さらに、アメリカ西海岸(カリフォルニア州など)では、移住してきた日本人労働者に対する日本人移民排斥運動が激化。日米の溝は深まり、太平洋を挟んだ対立の芽がこの時期に植え付けられることになったのです。
5. 日露戦争後の社会と文化・思想の変化
戦争に勝った日本ですが、国内社会も大きく激変していました。
国民の「権利意識」の高まりと政治
戦争中、国民は重税を耐え抜き、命を捧げました。だからこそ戦後、「国民にも政治に参加させろ!」「権利を認めろ!」という権利意識が一気に高まります。
この時期、長州閥の桂太郎と、立憲政友会を率いる公家出身の第1次西園寺公望が交代で内閣を担当する「桂園時代(けいえんじだい)」に入ります。西園寺内閣のもとで、少しずつ政党政治への歩みが進んでいきました。
文学界の苦悩:夏目漱石と森鴎外
明治国家が「坂の上の雲」を目指して突っ走った結果、個人はどうなったのか?
戦後の虚無感や近代化の歪みを描いたのが、当時の二大文豪です。
夏目漱石:『三四郎』や『それから』、講演『現代日本の開化』などで、外から無理やり進められた日本の近代化(外発的開化)に対する不安や、個人の苦悩を描きました。
森鴎外:軍医総監でもあった彼は、歴史小説(『舞姫』『阿部一族』など)を通して、国家と個人の葛藤を深く掘り下げました。
社会主義運動と大逆事件(1910年)
戦争中の重税や労働環境の悪化から、日本でも社会主義運動が広がります。
しかし政府はこれを極度に恐れました。1910年、明治天皇の暗殺を計画したとして、社会主義者の幸徳秋水(こうとくしゅうすい)らが逮捕・処刑される大逆事件が発生します。
これ以降、政府による徹底的な思想弾圧が行われ、社会主義運動は冬の時代(「冬の時代」と呼ばれる静観期)を迎えることになりました。
本日のまとめ
さあ、一気に見てきましたが、日露戦争の結果がもたらしたインパクトが整理できたでしょうか?
対外面:韓国併合、満州進出(南満州鉄道)、そしてアメリカとの関係悪化。
対内面:日比谷焼打ち事件に象徴される国民の権利意識、大逆事件による思想弾圧、夏目漱石・森鴎外らに見られる近代への葛藤。
日本は「列強の仲間入り」を果たした反面、植民地支配や国際的な孤立の種、そして国内社会の歪みという、大きな宿題を抱え込むことになったのです。
次回は、これらの動きが中国(清)にどう影響を与え、1911年の辛亥革命へとつながっていくのかを見ていきます。お疲れさまでした。
